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これが答弁?

 これはいったいどうしたことなのだろう。ここまでくると政治の制度そのものを根底か
ら“軽視”どころか“無視”するような政治姿勢ではないかと、激しい憤りすら感じられ
る事態である。
 一つには、憲法改正について民進党の長妻昭議員が質問した際の答弁で『自民党総裁と
しての考えは相当詳しく読売新聞に書いてありますから、ぜひそれを熟読していただいて
もいいんだろうと』発言したことである。
 国会における責任ある答弁だとは思えないほど驚き呆れるような話である。これをまと
まな答弁であるとご自身が認識しているのだとすれば、一国の首相としても与党の総裁と
しても認識不足が甚だしいと言わざるを得ない事態だ。
 そもそも憲法改正については自身と自身を含む右傾化を強める国会議員諸氏の戦前回帰
の“こだわり(=拘泥)”が発端となっているものだろう。
その趣旨や考えについて問われているにもかかわらず、きちんと述べることを放棄して、
特定のあるメディアに書かれているから「それを読め」というのは、二重の意味で傲慢だ
と言わざるを得ない。まず、国会は国会議員のものではなく、その向こうに国民がいると
いうことを忘れてはいけない。すなわち、ある議員に対する答弁は、その議員に対する答
弁なのではなく国民全体に向けての答弁だということだ。いわば国民全体に向けて『読売
新聞を買って読め』と言っていることに他ならないのだ。
 首相であれ、与党の総理であれ、ある一つのメディアの宣伝をするかのような発言には、
これまでメディアとの関係に慎重さを保ってきた政治家には見られなかった“迂闊さ”や
“増長”さえ感じさせられる。

 さらには、自身がその場にいて答弁の機会が与えられているにもかかわらず、せっかく
の機会を自ら放棄して『読まなければわからない』『読んでいない方が悪い』とでも暗に
言うが如き答弁の仕方をするというのは、真摯に答える、あるいは説明することをせずと
も『自分の主張することを認めていればそれで良いのだ』とするかのような、驕慢な姿勢
が見えることだ。
 国会の中でそのような姿勢を国民に示していることが、立憲政治の制度や趣旨を軽視す
ることに他ならないという認識が欠けているとすれば、独裁者然とした政治姿勢を露呈し
てしまったということに他ならないことを自覚すべきなのだ。
 憲政史上、これほど国民を愚弄した答弁はないと言って良いほど最悪のそれだというこ
とを与党も自身も強く認識し直した方が良い。

 さらに噴飯物だと強く感じられるのは、『大いに(衆参)両院の憲法審査会において各
党間で議論をしていただきたい』と呼びかけたことである。
 野党各党が、そして国民の多くが、さらに憲法学者の多くが「憲法改正など必要がない」
と考えているにもかかわらず、自身のこだわりのために同じ土俵に乗れ、ということ自体
が“奇妙な”そして“まともではない”論理だと気づかないのだろうか。
 このような場合、たとえ話で考えるのは避けたいところだが、法に触れるような行いを
した人物が、『法に触れるとしても、その行いは正当だった』ということを認めることが
できるようにするための手段をみんなで考えようよ、考えないとすればそれは責任ある国
民や集団ではないということになるぞ、と提案し主張しているに等しい。
 そのような愚にもつかないような提案に乗り、話し合いの場につこうとすること自体が
間違いだということは、子どもでもわかる理屈だ。

 そもそも現憲法は、制定から70年もの間、有効に機能し、国民が大切に護ってきたこ
とにより、世界の平和と人権擁護に貢献してきた世界に誇るべき立派な憲法だ。
 現政権の都合で安易に、そして望ましくない方向に変えて良いと考えている国民は多く
はないはずだ。(もしいるとすれば、それは現政権の「危機感を煽る」煽動に乗せられて
しまった人々かも知れない)
 同じ土俵に乗るために対案を出せ、とか議論をせよ、と主張すること自体に論理のすり
替えがあるし、バカバカしさに満ちているということを自ら承知しているからこそ、一見
もっともらしい「きれいごと」を並べ立て、憲法の根幹にかかわらない枝葉を問題にし、
私たち国民の目を欺き、まやかそうとしているのだろう。
私たちはそのことに着目し、十分な注意を傾ける必要があるだろうと思われてならない。
 目を欺くということに関して言えば、(想像の域を越えないが)自身と夫人のついての
追究からも目をそらすことが可能になるとの思惑から、憲法改正を言い立てているのでは
ないか、と勘ぐりたくもなる。もしそうだとすれば、自身の政治家としてのこだわりだけ
でなく、自身の地位保全のために、憲法という国の根幹に関わる重要な装置をいたずらに
いじろうとしていることになる。

 信じがたいことに、首相は『憲法で国家権力を縛るというのは絶対王政時の旧い考え方』
だと国会で答弁するなど、現行憲法と立憲主義を全く理解していないような発言を繰り返
しているが、この憲法の趣旨が生きていればこそ、安倍政権に見るような暴走を食い止め
ることができるのだ。決して“旧い時代の話”ではないのだ。
 現にいま現在進行形で、私たちの目の前で展開されていることではないか。この憲法を
制定するにあたって尽力された先人の先見の明と慧眼に感じ入り感謝するばかりである。
 現憲法の精神が損なわれてしまえば、いまのような低次で恣意的かつ身勝手な政権運営
にいっそう弾みがつくであろうことを思うと、恐怖を禁じ得ない。
 世界各地で自国主義が横行し、多様性を否定する排他的な動きが進行しているからこそ、
なおいっそう現憲法の高々とした人類普遍の理念を大切にし、その理念を生かした国づく
りに邁進することで、日本という国が独自の働きかけで世界に貢献できるはずなのだ。
憲法の改正などまったく必要がないし、もし不都合な事態がおきても、それは下位の法律
で対処するなり、時限立法によって対応する等のことが可能なはずだ。
 我が国にとって世界に誇るべき“根幹”である憲法をゆるがせにするという愚かなことを
軽々にしてはならないし、それをうかうかと許してはならないと強く思うものである。
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遅ればせながら「憲法記念日」に際して

 今日は憲法記念日である。(と書き出したのだが、書きたいことが次から次へと生じ、
文章が長くなってしまい、つい数日経過して今日になってしまった)日本弁護士連合会の
中本和洋会長は、1947年の日本国憲法の施行から、70年目を迎えたことを受けて、「平和
と自由を守るために、たゆまぬ努力を続けることを誓う」とする憲法記念日の談話を発表
した。
 中本会長は談話で、日本国憲法の施行からこの間、「確実に国民の間に定着し、国民は
この憲法の下で不断の努力によって権利と自由を拡充させ、民主主義社会を実現・発展さ
せるとともに、平和な国家を築き上げてきた」と強調している。
 一方で、集団的自衛権の行使を可能とする「安保法制」施行に憲法違反との批判を加え
ながら、「安保法制の運用が進められ、違憲状態が既成事実にされようとしており、立憲
主義の危機ともいえる状況が生じている」と警鐘を鳴らしている。

 また、安倍総理も3日、憲法改正に向けたスケジュールについて、2020年の施行を
目指す方針を明らかにした。「憲法はたった一字も変わることなく、施行70年の節目を
迎えるに至りました」とした上で、戦争の放棄などを定めた憲法9条の改正を力説。
現在の憲法に自衛隊を位置づける条文がないことを強く問題視し、「自衛隊の存在を憲法
上にしっかり位置付けるべき」として具体的な提案をしたのだ。
 つまりは、反戦の誓いを掲げて営々と積み重ねてきた70年の努力を放棄して「軍隊を
持つ戦える国」であることを国内外に宣言しようというものだ。
 想像するに、この度の北朝鮮による相次ぐ核実験とミサイルの発射、それに対するアメ
リカ軍の出動による「力の誇示」は、絶好の追い風と感じられたことだろう。
 つまり、この事態で国民の危機感を煽り、“国民の安全を守るためにも憲法改正は是非
とも成し遂げられるべき課題だ”と強く印象づけることが期待できるからである。

 驚いたことに、4月29日朝、北朝鮮がミサイルを発射したとの報道を受け、東京メト
ロ、東武線、北陸新幹線が安全確認のため一時運転を見合わせたという。本気でミサイル
が落ちてくると思ったのか。それともミサイルが飛んできた時に運転を見合わせることで
乗客を守れるとでも真剣に考えたのだろうか。まるで、戦闘機に竹槍で応戦しようと真面
目に考えた戦中の指導者の姿とだぶって見え、なんたることかと、二重の意味でその感覚
の愚かしさに呆れてしまった。一つには、危機を煽って大騒ぎして見せる愚かしさ、また
もう一つには、そうした煽動に国民は軽々と踊らされて危機感を募らせるだろうと思って
いるらしい「国民を愚弄した姿」にである。

 北朝鮮の危機を煽っているのはアメリカのトランプ政権だが、就任100日を迎えても
大きな成果を上げられないばかりか支持率も低迷している。そこで国民の目を外にそらせ
るためにシリアを爆撃し、アフガニスタンに新型爆弾を落とし、北朝鮮危機を煽っている。
 目をそらせたいだけのパフォーマンスではあるが、大騒ぎをして力でねじ伏せることが
できれば国内の支持率を上向かせることも望めると考えてのことだろう。確固とした将来
への展望があってのあってのことでないことは、(思いつきの政策を矢継ぎ早に打ち出す)
トランプ氏のこれまでの言動を見れば容易に想像がつく。
 
 もっともトランプ政権に限らず、アメリカは先の大戦以降、朝鮮戦争、ベトナム戦争、
イラク戦争やアフガン攻撃といった一連の対外政策で、失敗を積み重ねてきているが、そ
の大きな要因は「戦わなければならない根拠の希薄さやあいまいさ」に集約される。
 かつての吉田茂は、現憲法の持つ「平和主義」を盾に、朝鮮戦争に参戦させようとした
アメリカの要求をはねのけ(再軍備の要求も)、そのかわりに武器・弾薬をつくるという
後方支援に徹することで、日本を繁栄させ、一方で日本独自の関わり方で平和の実現に貢
献することもめざすという「絶妙の外交」で日本の立つ位置を確保してきたのだ。
 それ以降、日本の自衛隊が“戦わずに”現地支援に専念してきたからこそ、現地の人々
から信頼され、受け入れられてきたことを思うと、現政権の浮き足だった浮薄な対応が悔
やまれてならない。
 
 だが、そのようなことは現政権にとってどうでもよいことのようだ。
 何よりも重要なことは、かつて衆議院議員選挙の際に発した『日本を取り戻す』ことに
あるのだ。ここで大切なことは日本を「何」から取り戻すのか、「誰の手に」取り戻すの
かということだ。
 国民の多くは、「かつての日本の繁栄を国民の手に」取り戻そうとしているのだろうと
勘違いしているかも知れない。しかし、安倍政権のこれまでの政策や立法の姿勢を見れば、
それが大きな間違いであることは容易に見通せるはずだ。
 改憲論議が出始めた時に、安倍総理が放った『国民に憲法遵守の義務を』と言った一言
でもそれは容易に想像がつく。そもそも憲法は国の基本的な理念と哲学を内外に示して謳
い、政権の恣意的な暴走に歯止めをかけ、国の行く末を誤らないようにという機能を有し
ていることは周知のことで、憲法を遵守せねばならないのは政権の側なのだ。

 現憲法の制定に奔走した幣原喜重郎内閣も、そしてそれを指導したGHQも、日本の国
民は、権力を恐れ萎縮し、権力におもねたり、権力の意向に過剰に反応したりして、付和
雷同して一方に流れやすいことや、国家がそれをよいことに暴走する怖れがあること、そ
して周辺の国々に損失と多大な被害をもたらす怖れがあることを熟知していたからこそ、
現憲法を注意深く制定したのだ。そのおかげで、日本は70年間、平和国家を築き上げる
ことに邁進できてきたのだ。それは取りも直さず、憲法がその機能を十分に果たしてきた
ことの証だと言える。
 法律にも政治にも疎いとしか思えない、あるいはそう装っているのかも知れない安倍総
理は、憲法の持つそうした機能を平然と無視し、憲法を遵守することを国民に求め、国民
を支配できる戦前の体制に戻すことを希求しているとしか思えないのだ。基本的人権の尊
重、恒久平和主義、国民主権を柱とした現憲法は、「支配層に日本を取り戻す」上でやっ
かいで邪魔な存在でしかないはずだ。
 とりわけ、個人の自由や権利を保障するなどということは、現政権やそれを取り巻く国
会議員の念頭にないということは想像に難くない。
 それは先のブログにも書いた通り、「創生『日本』」という超党派の議員団体の研修会
で自民党のある閣僚経験者が「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三原則はなくさ
ないと」と発言し、大いに賛同を受けたということからもわかる。
 それゆえの改憲志向であって、日本という国が世界に誇れるまっとうな国としていっそ
う励んでいくための改憲ではないことは言うまでもない。
いわば、過去に強いノスタルジーを抱くエスタブリッシュメントのための改憲論議であっ
て、国民や望ましい民主国家のためのそれではないのだ。

 その下地づくりのために、現政権はまず教育基本法を書き換え、学ぶ権利を有する国民
という位置づけから学ぶ義務を有する国民へと、その趣旨を180度転換させることに成
功した。さらに道徳を教科とし、「より良い生き方について葛藤を通して考え」ることを
通して道徳的実践力を培うことを目的とした活動ではなく、国にとって都合の良い価値を
押しつけ陶冶する修身さながらの教育へとその意味を変えてしまった。
 森友学園の塚本幼稚園が、幼稚園児に「教育勅語」や「五箇条の御誓文」を暗唱させる
ほか、伊勢神宮への参拝や自衛隊の記念式典で園児らが演奏したり、日の丸と旭日旗を振
らせるなど、露骨なまでの“愛国教育”を行っていたことや、安倍晋三記念小学校を創設
する際の土地取得疑惑などが問題になったこと、そしてそれが未だ解明されていない現在
進行形の問題である。
 そこで問題視された「教育勅語」について、政府の要人のみならず複数の国会議員から
『教育勅語の精神は、親孝行とか友達を大切にするといった今も大切なものを持っており、
なんら問題にはならない』といった表明がなされたばかりか、教材として使用することに
も問題はないということが“閣議決定”されたことに驚きを禁じ得ない。

 そもそも教育勅語の本質は、そのような一般的な観念にあるのではないはずだ。
 君主に従い、奉仕する人民という意味で、国民を「臣民」と記している。さらに、臣民
は戦争など国の非常時には、勇気をふるって身を捧げ、「君国」のために尽くすとも書か
れており、それが功を奏し、全体主義が浸透し、戦争中の「一億総動員」につながったと
も指摘されるものだ。
 そこで1948年、衆院は「根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている」と
指摘。基本的人権を損ない、国際的にも疑問を残すものだとして「排除」を決議し、参院
も同日、「失効確認」を決議したしろものである。
 友だちと仲良くとか親兄弟を大切に、などといったことは教育勅語を持ち出すまでもな
く、普段の学校生活の中で指導できるもののはずだが、国会を軽視し議論を尽くそうとし
ない現政権は、そのような「民主社会に反することがら」ですら閣議決定で平然と取り決
め議論に終止符を打とうとするのだ。

 時の政権にとって都合の良い国民に育てるために、学校を「教え育てる場」としてきた
のは明治の学制発布である。しかし、学校とは本来「教えられて習う場」ではない。単に
教えられて習うのであれば、それは「教習所」でしかない。これはずいぶん前に、このブ
ログで記したことであるが、学校とは文字通り「学(学んで)」「校(かむがふ=考える)」
場なのだ。そして「まなぶ」とは、自らの意思で「調べたり、探ったり」する、いわば研
究的・主体的な取り組みを指すのであって、一方的に「教えられる、教えてもらう」受動
的な取り組みの姿ではないのだ。
 また、「校(かむがふ)」は比較したり、さまざまな角度から見て「考える」という
“実践”を通して、ものの見方を自らの内に育てる姿を指す言葉だ。
 それゆえ、ある一定の知識や技術を「教えてもらい」、「覚え蓄積し」、用意された正解
を言い当て答えることができるようになるといったことだけが学習の目的ではないという
のは自明の理だ。それは学習のほんの一面だけをとらえているに過ぎないからだ。
 つまり学校で学習する本当の目的は、対象に真っ正面から対峙し、対象の本質を見極め、
とらえることのできる透徹した目と問題に対処できる解決力、さらにはそれを伝えること
のできる“理(ことわり)”を表現する力を自ら養うことにあると言って良い。
 そうした構えや態度は、世の中の動きを見据え、より良い社会をめざそうとする成熟し
た市民として自らを育てることにもつながるはずだ。新しい知見が創出されたり、これま
でになかったような難問が次々と起きる先行き不透明な社会にあっては、「覚えた知識」
では道に迷うことが多くなるであろう。そこでは、ものごとの本質を見抜く眼力と考え・
判断し、決定できる力や構えが大切になるはずだ。しかも、その判断が「独りよがり」の
ものであったり的外れなものになったりしないよう、たえず自己監視を怠らず、考えを創
出できるよう、既存の知識あるいは先人の知恵との間の往還を繰り返し、確かな判断を志
向するものでなければならないことは論を待たない。
 
 しかし、現政権は学習そのものの意味も、学校教育それ自体のねらいも、自立した市民
を育てることを目的としたそれから、従順に命令や指示に従う臣民として育てることに変
えようとしてるようである。
 そう考えれば、国民の手から「学ぶ権利」を奪って「学ぶべき存在」として位置づけた
り、人間の内面の価値観を一定の価値観や道徳律で縛ろうとしたり、本来政権の暴走を食
止めるための機能を有する憲法を、“国民にも遵守の義務を”とお門違いなことを平然
と主張してみたり、テロを未然に防ぐためと称して「共謀罪の制定」を急いだり、「特定
秘密保護法案」を制定して国民の“知る権利”にふたをするなどといった、民主社会に逆
行するような政策を次々と打ち出してきたことも納得が行く。
 このような危うい政権が一定の支持率を得て一強のままでいるというのも不思議な話だ
が、私たち国民もよく考えて見極めた方が良い。

 安倍首相の名を借りて極めて右に偏った教育を施そうとした学園について、「教育への
熱意はすばらしい」「すばらしい教育を展開している」「自分と同じイデオロギーを共有
している」と讃えたその口で、土地の取引に関して関与が疑われ、国会での追及を受け政
運営に都合が悪くなった途端に、「学校が行っている教育の詳細について全く承知して
いない」「しつこい人だ」などと言い訳をしたり責めたりし、挙げ句の果ては国会に呼ん
で証人喚問をして偽証罪に問おうとまでしたのだ。
 政権にとって都合の良いうちは大歓迎するが、事態が変われば一転して切り捨てられる
ということは、この一事でもよくわかるはずだ。こうした政権に日本の行く末をゆだねる
ということに不安や怖れを感じたりすることなく、支持するというのはどうした心持ちか
らなのか訝しく思う気持ちを禁じ得ない。いつ政権が、あるいは国が国民に刃を向けるよ
うになっても不思議ではないのだ。
 現政権の政策のすべてが、国民の権利を奪うことに向けられていると言っても過言では
ないが、その対象が他人ではなく自分自身である、すなわち“我がこと”として受け止め
る覚悟を各自が持った上で支持しているのであろうか。
私たちは、そのことについてよくよく考えた方が良い。

 なぜそこまで、現政権が国民支配に強い情熱を持つのかということについて、内田樹氏
がすこぶるわかりやすい説明をしている。
 内田氏は、『日本の指導層の抱え込んでいる「主権国家でないことの抑圧された屈辱感」
は日本国民に「主権者でないことの屈辱感」を与えるというかたちで病的に解消されるこ
とになった。それが特定秘密保護法、集団的自衛権行使の閣議決定、安保法制、共謀罪と
続く、一連の「人権剥奪」政策を駆動している心理である』と指摘した上で、『改憲への
熱情もそれによって理解できる。憲法に底流する国民主権のアイデアはアメリカの統治理
念そのものである。それを否定することで、対米屈辱は部分的に解消できる。そして「国
民に対してだけは主権的にふるまう」ことで国家主権を持たないストレスも部分的に解消
できる。~中略~自民党改憲草案は近代市民社会原理を全否定し、むき出しの独裁政権を
志向する病的な政治文書だが、「対米屈辱感を解消する」というねじれた政治目標に奉仕
しているのだと思えば、理解できないことはない』
 なんともストンと腑に落ちてわかりやすく納得できる絵解きである。
 
 衣の下の鎧をかくすために、現政権が腐心してきたのは「美しい言葉」で目先をそらす
ことだ。曰く『日本を取り戻す』『日本が生まれ変わる』『郷土愛』『国への誇り』等々。
テロ等準備法案にしても、「テロから国民を守る」としたり、「オリンピックを成功させ
る上で不可欠な法案」と言い募ったりしているが、オリンピックを無事に開催することを
目的とするなら時限立法で良いはずだし、もっと言えばそのような国民を萎縮させずにお
かないような法案が必要なら、オリンピックを辞退した方がよほど国民は安心なはずだ。
 そもそも安保法制を強引に策定し、外交努力を優先させることなく(イスラム憎しを根
底に持つ)西欧諸国と協働してテロと戦うと宣言したりすることがなければ、日本がテロ
の対象になどならなかったはずだ。(ここにも対米屈辱が顔を覗かせているようにも思わ
れる)
 そうした“ちぐはぐな対応”“危なげな政策”を覆い隠す上で、美しい言葉が有効だと
考えているようだが、そうしたきれいなあるいは耳に心地よい言葉が流布されるようにな
った時は危険だ、と考える人も多いし、かく言う私もその一人だ。

 それはともかく、この政権に最も危惧を感じるのは、民主主義や立憲主義といった考え
に過誤や無理解があるのではないかという点だ。
 首相自らが自分を『立法府の長だ』と言ってみたり、『自分にも表現の自由がある』と
声高に主張してみたり、多数決でなんでも押し通すことができると思っている様子が窺え
たり、子どもでもわかるような勘違いや思い過ごしをしているふしが見えるからだ。
 そればかりか、国会という討議の場であるにもかかわらず、きちんとした討議をせずに、
はぐらかしてみたり揚げ足を取るかのような発言をしてみたり、自ら大声でヤジを飛ばし
てみたりするといった、乱暴で荒っぽい姿勢も頻繁に見受けられる。
 また、『丁寧に説明する』と言いながら、その説明がなされなかったり、『大臣に任命
した責任は総理大臣である私にある』としたものの、その責任を取った形跡はどこにもな
いなど、発言それ自体に信頼が持てず、国民をして認識不足を疑わせたくなる一因となっ
ている。本当にこの人の手に政権を委任しておいて大丈夫なのだろうかと不安にかられて
しまうのは私一人ではないはずだ。
 改憲の必要など、どこにもないのにかかわらず、こうした政権下で発せられる改憲論議
だ。いみじくも中野晃-・上智大教授(政治学)が、ある講演(5月3日に行われた全国
憲法研究会の憲法記念講演会)で「『あなた手術しましょう、どこを切るかはあとで考え
ましょう』。今の改憲論は必要もないのに、とにかく手術を薦める医師のようで、信じな
いほうがいい」。と自己目的化した政界の改憲論をこう批判した、と報じられたがまさに
同感である。
 安倍首相は『オリンピックの年までに改憲を』と先日のビデオメッセージで表明してい
たが、オリンピックと憲法はなんの関わりもないはずだ。オリンピックを政治的に利用す
るということがあれば、オリンピックの精神に反する行為であることは言うまでもない。
(もっとも、商業主義に蝕まれ多大な経費を要するようになってしまった現在のオリンピ
ックが、元来の“精神”にふさわしいものと言えるかどうかは、別の問題だが・・・)

困ったことに、日本の政治指導層はオリンピックやカジノ、万博など“賑やかし”にも
似た目先の浮ついた好況に目を向けさせ、それを当てにして国民をリアリティーのない愚
かな社会に向かわせようとしているかのようである。だが、それは一時的な“まやかし”
あるいは“目眩まし”に過ぎないということを、私たちは肝に銘じておいた方が良い。
 そのような幻想につられて道を誤れば、次世代を担う子や孫に申し訳の立たない禍根を
残すことになるはずだ。
 私たちは「持てるものすべてを投げ打ってギャンブル」するかのような愚かしい期待を
この政権にかけ、元も子もなくすような危険を犯し、挙げ句の果てに前時代に逆行して臍
を噛む結果にならないようにしなければならないとつくづく思うのだ。
そうなることは目に見えているのだから。

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続々々々々主権在民

 いちいちコメントしていては、こちらの身が持たなくなるように感じられる、日本ばか
りではなく世界各地で起きているポピュリズムとナショナリズムの嵐に、民主主義の負の
側面の台頭が透けて見え、怖れつつ呆れているこの一年数ヶ月である。

 近代民主主義を真っ向から否定するように差別と分断を進め、子どもじみた「アメリカ
ファースト」を声高に主張するだけで、政治家としての志の高さや知性の深みが窺えな
いばかりか、ジャーナリズムのあるべき姿を否定するといった暴言や粗雑な論理に立つ言動が目につくトランプ大統領がある程度の支持を得ているアメリカ合衆国の現実に落胆を
禁じ得ない。
 そして、そのようなトランプ政権に、あたかも尻尾を振ってすり寄っていくように早々
と「ゴルフ外交」をセッティングし、それを大成功だと自画自賛している安倍政権の外交
姿勢に、なんとこの国のリーダーは“安っぽい”ことかと呆然とし、一方で大丈夫か?と
懸念している国民は少なくないはずだ。
 ある報道では、その首脳会談の折に、安倍総理はトランプ大統領に「実はあなたと私に
は共通点がある」と言ったとされている。(以下引用)
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怪訝な顔をするトランプを横目に安倍は続けた。
「あなたはニューヨーク・タイムズ(NYT)に徹底的にたたかれた。私もNYTと提携し
ている朝日新聞に徹底的にたたかれた。だが、私は勝った…」
これを聞いたトランプは右手の親指を突き立ててこう言った。
「俺も勝った!」
トランプの警戒心はここで吹っ飛んだと思われる。トランプタワーでの初会談は90分間
に及んだ。
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 朝日に代表されるリベラル系勢力に勝った自身と、ニューヨーク・タイムズに代表され
るマスメディアを一方的な主張で抑え込んだトランプ大統領とを重ね合わせてそう表現し
たのだろう。
 そのような“勝ち負け”といった低次かつ形而下的な論理と発想で、政治を語り、国際
問題を論じ、ひいては国家としての展望、国民の生活を論じているのかと思うと、いっそ
う危機感を抱かざるを得ない。

 安倍首相は第一次政権当初から「戦後レジームからの脱却」を主張し、矢継ぎ早に政策
を断行してきた。「戦後レジームからの脱却」とは、つまるところ新しい日本のありかた
を求めるものではなく、いわば戦前・戦中に強いノスタルジーを抱き、そこに帰っていこ
うとする「旧に復す」ことをめざしたものだと言える。
そうした首相の出現を得て、戦後一貫して地道に活動してきた「生長の家」とそれに強い
影響を受けて、いまや大きな勢力として虎視眈々として「天皇主権」に根ざした「国のた
めに奉仕すべき民がある」国体をめざす日本会議や神社本庁が“我が意を得たり”とばか
り、その偏った主張を展開することに遠慮も怖れも感じなくなっているのだろう。

 超党派の国会議員で構成される「創生『日本』」という超党派の議員団体が、2015年
5月に開催した研修会を録画したものがかつて注目を集めたことがことがある。
ホームページによれば「創生『日本』」は「戦後レジームからの脱却」を理念としていて、そのためには憲法改正が成し遂げられねばならないと考える議員の団体のようだ。
映像の中では、自民党のある閣僚経験者が「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三
原則はなくさないと」と発言していた。また別の議員は「尖閣、軍事利用しましょう」。 首相補佐官は「いよいよ、ほんとに憲法を変えられる時が来た。これ以上延ばすことは
できない」と発言し、いずれの発言にも、会場から大きな拍手が湧いたのである。そして
安倍首相の姿もそこにあったのだ。その場にいた稲田防衛相も親の代から生長の家の影響
を色濃く受けた生粋の右派の一人であることは言うまでもない。

 敢えて非常に大雑把なとらえ方で言えば、戦後民主主義を厭う安倍首相の出現がナショ
ナリストに力を与え、相互に(陰ながら目立たぬように)協働して戦前回帰を果たそうと
しているだろうことは想像に難くないし、そう思わざるを得ない。
 そのため右派を標榜する人物が次々と発言の場を得、それがまたある一定の「なんとな
くの支持」を獲得し、本来なら議論に値しないほどの議題であるにもかかわらず、気がつ
けばいつの間にか議論の土俵に乗せることも妥当だ、という風潮を生んでしまっていると
いうのが、現在の日本を覆う景色のように思われる。
 先日までNHK会長を務めていた籾井元会長、作家の百田尚樹氏、櫻井よし子をはじめ
とする人々が,まるで正論であるかのように時代錯誤な発言を繰り返しているのも、そう
した事情に後押しされているからだと見て、まず間違いないだろう。
 いま日本中の耳目を集めている松友学園の籠池泰典理事長についても、彼が日本会議の
大阪支部長を務める役員であることを考えると、前時代の亡霊を見るような教育方針に納
得がいく。
 しかし、どうやらここにきてそうしたナショナリストの緊張感の希薄な行き過ぎた言動
が、むしろ逆に彼らの足かせになりつつあるようにも見える。安倍首相の意向を忖度し
て先走った言動が却って問題を浮き彫りにし、リベラルなあり方を求める市民の違和感を
めざめさせ、勝手放題はさせないという意識を醸成すると同時に、政権自体も前のめりで
行き過ぎた姿勢を慎まなければという緊張感を持ち始めているように思われるからだ。

 それにしても、政治の世界から形而上的な「理想を追い求め実現しよう」とする理念や
哲学が姿を消し、単なる自己のこだわりを具現化しようとする姿勢ばかりが目につくのは、
彼らが「政治家」ではなく、かつて誰かが言った「政治屋」だからなのだろう。
悲しいことに我が国では、三権分立についてもしっかりと認識できていない政治屋が多い
ように見受けられる。とりわけ行政の長である首相自身が自分を指して「立法の長」だと
発言するなど、その認識過誤に『気は確かか?』『学生時代に何を学んできたのか』と訝
しく思うことも再三再四にわたる。司法が行政府や立法府を監視することに十全な機能を
発揮しない、できない状況をみるにつけ、本当の意味で三権分立が根づいていないとすら見えてしまう。
その意味では、司法がきちんと正常に機能しているアメリカの国民は希望が持てるという
ものだが、いずれにしても政治家としての常識すらわきまえていない「資質の欠落」した
政治家が日本には多いように思われてならない。

 一強の政権が出現することによって、省庁も議員も地方行政組織も政権の思惑を慮(お
もんばか)り、忖度する事情が働き、あってはならない不当な要求がいつの間にか通って
しまったというのが、このたび問題になっている松友学園の土地取得問題の正体なのだろ
うと私は見ている。
 この問題に関しては、土地の格安取得だけでなく、教育基本法をないがしろにした偏向
教育を施していること、さらにはそれに関して首相のみならず昭恵夫人までも関与してい
たことが疑われる問題など、いくつかの問題が絡み合っているが、どれをとっても戦後民
主主義を否定する政権の誕生が直接・間接を問わずもたらしたものだと言って過言ではな
いはずだ。
 自分や妻は関与していないと、ことあるごとに反論している首相であるが、政権誕生時
からこれまでとってきた政策や法の改訂、そこでなされてきた主張がこうした問題を生む
背景にあるばかりか、深くかかわっているということを自覚すべきであろう。

 李下に冠を正さず、という箴言があるように、現政権は“緩み”や“驕慢”、“増長”
を戒め、自身を律する姿勢について改めて見直し、銘記することが肝要ではないかとつく
づく思われてならないが、何より憲法を遵守し、立憲主義を尊重する構えをしっかりと堅
持し、民主主義を貫くことが大切だろう。そうでなければ、“象徴天皇”のあり方を模索
し、貫き通されてきた現天皇の深いご意思に背くことにもなるはずだ。
 党名の“自由に基づく民主主義”を標榜する以上、(自らの権利と自由ではなく)民の
権利と自由を保障するために、公僕として奉仕する姿を貫き通して欲しいものである。




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EverNote顛末

 私はもう長い間さまざまなメモを取って蓄積したり、そのメモを活用するために、
Evernoteを愛用してきた。
 無料のサービスであっても、一つのアカウントを登録しておけば、何台であろうが
自分の所有するコンピュータ間で同期させ、蓄積した情報を閲覧、編集することがで
きることから、非常に便利なツールとして愛用してきたのだ。
 ところが二か月ほど前から、無料サービスではそれが二台に制限されるような仕様
になってしまい、二台以上のパソコン間でデータを共有していた私は、どうしたもの
かと思案していた。

 だが、三台目以降のPCでも別のメールアドレスで新しくアカウントを作成し、
元のEvernoteから共有設定すれば共有できるとの情報を得た。
 そこで試してみたところ、なんとあっけらかんとうまく同期させることができてし
まったではないか。
 これなら理論上は、所有するメールアドレスによるアカウントの数の倍の数のPC
でデータを共有できるということになる。(もちろん、個人的にそんなに多くのメー
ルアドレスを持つ人はいないだろうが。)

 これで、従来と同じように所有する二台のデスクトップパソコン、三台のノートパ
ソコンとタブレットのすべてにEvernoteを置き、同じ情報を共有し、これまでと同じ
ように活用していくことができる。ホッと一安心である。

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Notion6とベロシティー

 一ヶ月ほど前、新しいノーテーション・ソフトを手に入れた。それはNotion6という
Presonusから提供されているソフトである。内蔵されているオーケストラ音源をはじめとする音源の質が気に入ったこともあって、以前から前のバージョンNotion5は使用して
いたのだが、これにはボーカルのサウンドが内蔵されておらず、コーラスの楽譜を作成
しても、再生するとどのパートもピアノの音色でしか鳴ってくれない。
 ところが、新しいバージョンではサウンドパックも新しくなり、ボーカルボイスも内蔵
されているというので、これまで残念に思っていたことの一つが解消されるとの見通しが
持てたからだ。
 インストールして試しに合唱譜を作成してみると、思い通りとは行かないがコーラスと
して聴くに耐える再生品位で再生することができ、安心して合唱譜を作成できることを確
認することができた。やはり手に入れて良かったと思えた。

 このNotion5も新しいNotion6も、他のノーテーションソフトと同様に、基本的には
ベロシティーに関してはpやmf、fといった強弱記号でしか設定することができない。
これがノーテーションソフトの最も残念に思う部分だ。(とはいえ、本来が演奏を目的と
したソフトではなく、スコア作成のためのソフトなのだから致し方がないのではあるが)
 そうした強弱記号を書き込むことによるベロシティー値の設定では、一つ一つの音に対
してきめ細かな値を書き込むことはできないからだ。
 ところがこのNotionでは、どちらのバージョンでもベロシティー・オーバーダブとい
う機能を備えており、MIDIキーボードとMIDIインターフェイスでつながっていれば、
強弱記号とは別に、各音のベロシティーをMIDIキーボードを弾くことで細かに設定でき
るとマニュアルに記されていた。

 MIDIインターフェイスとは言っても、今やUSBで接続しなければならない。手もとに
そんなものがあるかと思案しつつ探してみたら、いとも簡単に私の書斎の中に、それも二
つも見つけてしまった。ずいぶん昔に買ったものだ。忘れていたようだ。一つはヤマハの
MU500、もう一つはやはりヤマハのUX16だ。見つけてから思い出したが、ローランドの
ものも持っていたような気がする。(うかつと言えばうかつに過ぎる話ではある)
 それはともかく、いずれも古い機器なのでWindows7やWindows8マシーンで使用する
ためのドライバがあるのかどうか少し不安がよぎる。とりわけWindows10 で動作保証が
されているかどうか大いに心配であった。
 試しにヤマハのサイトを覗いてみると、ちゃんとWindows10まで対応したドライバが
あるではないか。狂喜乱舞の体で早速ダウンロード。インストールしてつないでみると、
ちゃんとシンセでリアルタイム入力もできる。心配は杞憂だったようだ。

 さて、肝心のベロシティー・オーバーダブだが、試行錯誤の末(とは少し誇張があるか
も知れない、実際は数度の試行であっさりと)、各音のベロシティー値を変更・設定する
ことができた。本当は、数値で入力できれば文字通り「思い通りのベロシティー」で再生
することや再設定することができたと言えるのだろうが、未だ思い通りとは行っていない。
 ここで試すことができたとはいえ、それはあくまでも感覚的なもので、鍵盤を叩く微妙
な強さの違いで入力を達成しているに過ぎないからだ。こうした感覚的な編集方法ではな
く、他に何か狙い通りの値を設定できる確かな方法があるのかも知れない。
 これからも試行を重ねて、文字通りの「意図した強さ」を実現できるような方法を探っ
ていきたいと考えているところだ。ここまで書いてきて、ひょっとするとシンセ側で演奏
する際のタッチセンスを設定しておいて、各音ごとに設定値を変えて弾けば意図した強さ
を入力できるのかも知れないとも考えた。
 それについては、これから試してみたいと思っているが、とにもかくにも“できそうな
ことはわかった”ことで、一応の満足は得られた。
さて、これからが新たな挑戦の始まりだ。


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続々々々主権在民

 9月26日に臨時国会が招集され、首相の所信表明演説に対する代表質問が始まった。
 とりわけ注目されるのが、改憲についての論議だ。その中で安倍首相は、『憲法改正は最終的には国民投票によって国民が決めるべきものだ』とし、まずは各党が考え方を具体的に示すことで建設的な議論をすることが大切だと各党が対案を出すことを求め、それが“責任ある”各党のあり方だ、と主張した。
 だが、そうではあるまい。国民の多くが「憲法改正が必要性」を求めることがまずあって、その声を請けて国会が腰をあげて議論するというのが民主国家のあるべき姿ではないか。
 国民のほとんどが改憲を望んでいないにもかかわらず、政権与党が『改憲を』と言いつのり、その土俵に乗らなければ、つまり対案を出して議論に応じなければ、野党としての責任を放棄することになる、というのは民主主義について誤認も甚だしいと言わざるを得ない。
もともと、改憲を論ずることそれ自体が、戦後こつこつと積み上げてきた民主国家のあるべき姿をないがしろにすると言って良いほど“バカバカしいこと”であるからだ。
 
 『誤認』と言えば、安倍氏は先に自らを「立法府の長」と呼び、それを訂正したこともある。どうやら民主国家における政治について、さまざまな認識不足やそのことによる誤った思い込みが、この人物を支配しているのではないかと思われてならない。
 そう言えば、数ヶ月前の「AERA」では、彼の卒業した成蹊大学の指導者が、教え子である彼について批判している記事を見つけた。
 たとえば、安倍首相の出身学部である法学部で当時、教鞭をとり、安倍首相も授業を受けていたはずの加藤節名誉教授は、こんな厳しい言葉を投げかける。
 『大学の4年間などを通して、安倍君は自分自身を知的に鍛えることがなかったんでしょう。いまの政権の最大の問題点は、二つの意味の『ムチ』に集約されていると私は思っています』
 加藤名誉教授は2つの“ムチ”とはignorant(無知)とshameless(無恥)のことだと説明する。 母校の恩師とは思えない手厳しさだが、加藤名誉教授の批判はそれだけに止まらない。安倍首相が2013年3月の参院予算委員会で憲法の最高権威である故・芦部信喜氏を「知らない」と言い放ったことを挙げて、さらにこう指摘している。
『(晋三氏は)政治学科ですし、憲法もしっかり勉強しなかったんでしょうね。しかし、改革を訴えているのに、(芦部を)「知らない」なんて言うべきではない。まさに無知であることをまったく恥じていない』と断じているのだ。

 そして、もうひとり、安倍首相にとっては名実ともに“成蹊大学時代の恩師”で、政界に入ってからも付き合いのある元教授が登場し、なんと涙ながらに安倍首相のことを批判しているというのだ。
 『(安保法制は)間違っている、と思います。正直いいますと、忠告したい気持ちもあった。よっぽど、手紙を書こうかと思ったんです』
 こう証言するのは、元外交官で中国政治史を軸とする国際政治学者、そして成蹊学園専務理事まで務めた学園の最高碩学といえる宇野重昭名誉教授だ。
 宇野氏は、「AERA」連載ルポの最終回(5月2・9日合併号)でジャーナリストの青木理氏の取材に答え、教え子である安倍首相との関係についてこう語っているのだ。
 『彼が入学した当時、私は国際政治学とアジア研究を担当していました。たくさんの学生の一人として彼を見て、成績をつけたのは覚えています。政界入り後も食事をしたり、ゆっくり話をしたこともあるので、ある程度の人柄も知っているつもりです』
そして『私はどちらかというとリベラリストですが、決して右でも左でもない。中国の要人や知識人に会うと、彼をすごく批判し、極右だと言わんばかりだから、“そんなことはありません”とも言ってきたんです』
 という具合に恩師であり、理解者、そして教え子を批判する者たちからかばってきたという宇野氏だが、その宇野氏ですら、現在の安倍首相の姿や政策には忸怩たる思いを抱かずにはいられなかったようで、このインタビューで涙を浮かべながら安倍首相をこう批判したという。
 『彼は首相として、ここ2、3年に大変なことをしてしまったと思います。平和国家としての日本のありようを変え、危険な道に引っ張り込んでしまった』『現行憲法は国際社会でも最も優れた思想を先取りした面もある。彼はそうしたことが分かっていない。もっと勉強してもらいたいと思う』と述べ、『彼の保守主義は、本当の保守主義ではない。ナショナリズムばかりを押し出していますが、己を見つめ直し、反省してもっとまともな保守、健全な意味での保守になってほしい』と猛省を促しているという。
 だが、そうした批判は届かないかのように、安倍総理は改憲への歩みを止めようとはしていない。そればかりか臆面もなく、その方向へまっしぐらに突き進んで行こうとしているかのようである。そうした姿勢がどこから来るのか、ということが私にもわかりかけてきた。

~この稿、またまた続く~


 





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続々々 主権在民

 江戸期の昔に、理想的な治政を施した上杉鷹山や、地球規模で持続可能な社会をめざそうと提言するムヒカ氏のような「深み」と「重み」、“無私の”と言って良いほどの自己のこだわりを捨てた尊く潔い姿をみるにつけ、そして日本人がコアに持っている”多様なものをゆるやかに受容し新たな体系をつくる”ことのできる精神風土を思うにつけ、アメリカに追随し、おもねり、すり寄っていこうとする現政権のあり方には、どうしても危惧の念を抱かざるを得ない。安倍をひねって「阿(おもねる)」「米」(あべい)と読めば、名が実を表しそうだというのは、(自分で思いついたことながら)悪い冗談だとは思う。
 何よりも、自分のために政治を司るのではなく民にむけるまなざしを大切にし、現実を真摯に直視してより高い精神性のある国作りを通して「孤高の日本の姿」を発揮して世界に貢献することを志向し期する政権とはほど遠いとしか思えないからである。

 現実を直視し、その解決を図ろうとするリアリティーのある理念や哲学が欠けているから単なる希望や願望でものごとを語ろうとするのだ。東京五輪招致の際に、『原発事故による汚染水は確実にコントロールされている』と語ったことに驚ろかなかった国民は皆無だったはずだ。アベノミクスは着実に成果を挙げているという主張に、広がる格差の中で貧困にあえでいる多くの国民はますます絶望を感じたはずだ。深刻な待機児童問題を抱えているにもかかわらず、女性が活躍できる社会をと言ってみたり、少子化の解消をと声高に言ってみたりすることも現実を見て問題の所在がどこにあるか把握できていないからだ。希望的観測を現実と取り違え、かけ声をかけていれば実現できるのだろうと短絡的に思い込んでいるのだとすれば、それはもはや政治ではない。「空虚なスローガン」では、国民の信頼を得ることが難しいばかりではなく、むしろ不信や不安を募らせ、政権から人心が離れること必定だからである。
 
 希望や願望ばかりを声高に言い立て国民を扇動するかのように言葉巧みに主張するのは、まさにかつての軍部の姿を彷彿とさせる。他国への進出を八紘一宇というもっともらしい言い方で美化し、撤退を転戦と言い換え、全滅を玉砕と報じ、敗戦を終戦と言い、占領軍を進駐軍と言い換えることで国民の目を現実からそらさせようとした仕方と根っこが同じだ。消費税の増税を先送りすることはない、と強く主張していながら『これまでの約束とは異なる新しい判断だ』として先送りしたことも、選挙を見据えてのこととはいえ、国民を愚弄した“ごまかしの言い換え”で、かつての軍部の仕方と同根だと言える。
 そして、“新しい判断”だからという理屈が通るなら、どんな約束も決まり事も何の意味も持たなくなる道理で、そうした言い換えをもっともらしくしたところで、何の説得力もないということに気づかない(あるいは気づかぬふりをする)ところに、この政権の危うさと恐ろしさがある。

 参院選挙の告示が迫るにつれて、この政権が悲願としてきた「改憲」について語らなくなり、参院選挙の争点を経済政策に絞って、その信を問う選挙と位置づけている。しかし、この政権のこれまでのやり方を見れば、選挙で勝利した途端に“民意を得た”とばかりに選挙戦を通して争点としてこなかった、すなわち公約以外のことまで(もっと正確に言えば、公約で述べたことは棚上げして)次々と政策を決定し、国民をして『そんなことまで委任した覚えはないが』と思わせる政治決定を薦めてきた経緯がある。特別秘密保護法や集団的自衛権の問題、安保関連法案の成立、緊急事態条項の創設も、すべてその手法によるものだ。
 今回の選挙も改憲の地固めをするための勢力確保としたい、という思いを背後に隠した選挙であることは火を見るよりも明らかだが、改憲のねらいがどこにあるかは、これまでの教育基本法の改訂や改憲草案を見ればよくわかる。

 そこで通底しているのは、「国民のために国がある」のではなく「国のために国民がある」べきだというナショナリズムの精神だ。それは人類が長年の苦難と努力の末に作り上げた近代的な民主主義の理念を否定しようとするものに他ならない。
 先の無謀な大戦で敗戦した日本にあっては、それまでの進出と拡大を柱とした帝国主義的な国のありようを反省し、世界のどの国よりも見事な体系を持った民主平和憲法を獲得したはずだ。人によっては、それが日本人によって策定されたものではなく、与えられたものでしかない、という見方をする人もいる。しかし、現憲法は当時の幣原喜重郎内閣が積極的に動き、帝国憲法とは異次元の「民のための国家、平和構築に貢献できる国家」を理想として策定したものだということは当時の記録からも明らかだ。そして戦争の悲惨さと愚かしさを痛感し、平和を希求していた国民が「不戦の誓い」を大歓迎したという経緯をみても、決して“一方的に押しつけられた”ものではなかったということがわかる。
“押しつけられた”と感じたのは、当時の支配者層だけなのだ。
 基本的人権と自由が保障され、さらに平和を獲得したことで国民の多くは初めて「自分を生きる」ことで、国のために奉仕する個人ではなく、個人のために国があるということの意味を実感したはずだ。
 ところが、現政権はまさにその対極にあることを目指そうとしているのだ。
 「国のために国民がある」という前時代的な幻想が『美しい国』なのだ。
 “(日本を)取り戻す”という言葉の中身は、まさに支配者層にとっての『美しい国』を取り戻すということなのだということを多くの人は見抜いているはずだ。

~この稿続く~

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続々 主権在民


 いま大きな地震に襲われた熊本県、大分県では家や家族を失った多くの市民の皆さんが過酷な生活を強いられている。
収束の兆しが見えない大きな揺れの続く避難所やテント、自家用車の中で先のみえない辛さの中で困窮していることは連日のニュースで周知のことだ。
 ここで起きている地震そのものが地震学者をして『これまでの経験則で推し量れない』と言わしめるほどの未知のことが起きている事態だ。
 これまで日本は、太平洋プレート、フィリッピン海プレート、ユーラシアプレート、北アメリカプレートの四つのプレートに乗っていると言われてきた。
 しかし、最近の研究の結果では、もっと数多く小さく分かれたプレートの上に乗っていることがわかってきたという。しかもGPSによる緻密な調査により、それぞれが複雑な方向に動いていることが明らかになったという。つまり、四つのプレートに乗っているという知識は、百年も前の科学的な調査によるカビの生えた古い“常識”でしかなかったということになる。
 それら複雑に絡み合いそれぞれの方向に動く多くのブロックに分かれたプレートが影響し合っていることは、日本のどこででも想像もしなかった大きな揺れと甚大な被害をもたらしても不思議ではないということを想起させる。

 このような不安定な大地に上に暮らしてきた私たちの祖先は、自然の恵みに感謝すると同時に、恵みをもたらす背後に恐ろしく大きな力があると畏れ敬ってきたのだ。
 そうした現実に目を向けず、人間が作り出した“安全基準”に叶ったからといって原発の再稼働を急ぐ姿勢からは、不都合な真実から目をそむけ、国民の心配をよそに相も変わらず原発マネーをめあてにしようという下心が透けてみえる。
 いったんことが起きてしまえば人間がコントロールできない状況に陥ってしまい、原発で得た以上の大きな損害を蒙ることは5年前の東日本大震災で経験済みのはずだ。しかも処理方法すら見つかっていない核のゴミが増え続けているにもかかわらず、相も変わらず原発に頼ろうとする姿勢には多くの国民は危惧の念を抱いているに違いない。
 いま熊本や大分を襲っている“経験則があてはまらない”地震に対して、稼働中の川内原発や停止しているとはいえ伊方原発・玄界原発が安全だとする根拠など、どこにあるというのだろうか。
 私たち日本人にとっては、『危険はない』と断言するより『あるかも知れない』と恐れて、さまざまに対策をとること、手を打つことが何より必要なはずだ。安全神話にすがって、その恐れから目をそむける姿勢、それもリアリティーのなさの現れと言える。
 
 現実に目を向けて根本的な解決を図らないと言えば、保育園の待機児童問題もそうだ。
 ツィッターに書かれた匿名の意見に対して『匿名である以上確かめようがない』として取り合おうとしなかったことも、民の目線に立とうとしない態度を如実に表している。
しかも『一億総活躍』『女性が輝く社会』を政策として掲げていながらだ。そこに大きな矛盾があることに気がつかないはずはあるまい。そこからみえてくるのは、民のために国があるという基本的な考えとは対極の“国のために奉ずる国民こそ”望ましいという民主社会の為政者としてあるまじき考えだ。
 そうしたことからだろう。伊吹文明元衆議院議長は、ある講演で『皆が公のことを考える強靱な日本人をつくらなければならない。』と述べたということも伝えられている。
ここでいう“公”とは、国のことであろう。まるで、戦前・戦中の大日本帝国憲法下のできごとのようではないか。

 司馬遼太郎は、戦前・戦中を“日本の歴史の中できわめて特異な時代”だと書いた。
 それは日本の長い歴史のなかのほんの短い時代だが、おぞましいばかりの特異な時代を懐かしみ、ノスタルジックにそこに帰って行くことを求めるからこそ、主権在民を憎み、意見や考えを持つ主体的な市民を厭い、生き方について考える道徳の時間を修身の授業よろしく徳育の授業にすることを望み、憲法を国民も遵守すべきだと筋違いのことを平然と口にし、特定秘密保護法案を策定して国民の知る権利を阻むことにも躊躇いを感じずにいられるのだろう。
 そればかりか、政権に批判的なメディアに対しては『公平・中立な報道を』ともっともらしい言い方でプレッシャーをかけ、中には放送法をたてに公平・中立とみなせない報道をしたテレビ局の電波は停止するという乱暴なことを言い出す大臣まで出る始末だ。
 そもそも放送法それ自体が、基本的にはいかなる権力からも独立していること、表現の自由を保障しようとしたものであって、電波の停止をと主張するのは、この政権の乱暴さと稚拙さを露呈していることの現れだと言って良い。
 なぜそれほどにあの特異な時代への回帰を望むかといえば、首相がしばしば口にするところの『日本が世界をリードする』姿を希求しているからであろう。強い日本にしたい、トップに立ちたい、他国のリーダーになりたいなどというのは、まるで子どもの考えだ。
 そのためにはまず民を支配し、「輝く」「活躍」という一見もっともらしい言葉を掲げて国のために奉ずる民にし、強国をめざすためにも少子化を脱するための出産を奨励すべしと考えているのだろう。文系を軽視して、経済効果が見込めそうな理工系に力を入れるというのも、そうした目論見があってのことで、その考えとリンクしているのがアベノミクスだ。決して国民を経済的に豊かにしようとしてのことではなく、それが国の富に帰結することを見通しているからだ。
 かつて首相は『日本を取り戻す』と主張した。うっかりすると、よき時代の日本を国民の手に取り戻そうではありませんか、という受け取り方をするむきもあったかも知れない。
 しかしそうではあるまい。かつての支配者層が主権者である国民の手から国を取り戻すというのが、その言葉に隠された真の意味だということは、第一次安倍政権の取り組みをみればわかっていたはずだ。

 ~この稿続く~

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続)主権在民


 ところがいまや日本はグローバリズムに基づく競争社会に何の疑いもなく積極的な参加の姿勢を示すと同時に、一方では英米仏の身勝手な利権争いを遠因とするテロとの戦いに自らを置こうとしているのだ。
 その姿を最も象徴するものの一つがTPPだ。TPPは、そもそも自国のドルの力を強めようとして環太平洋の諸国に呼びかけたアメリカにとって都合のよい政策だ。その証拠に交渉を重ねる中でアメリカにとって不都合な状況が生じてくると、その批准に反対する声がアメリカ国内で出始めたではないか。アメリカに媚びてアメリカにとって都合がよく、日本の生産農家にとっては不都合な交渉に積極的になる必要などなかったはずにもかかわらず、前向きに交渉に参加するさまからは、“国内の民”以上に対アメリカを重視しようとする思惑しか見えてこないではないか。
 また、戦後ずっと長期間にわたって堅持し続けてきた「不戦の誓い」をかなぐり捨ててまで、英米仏の身勝手な論理が生んだ深刻な対立に“武力”で参加するという有志国連合に名乗りをあげる必要などなかったはずだ(しかも憲法の解釈を変えてまで)。
 イラン・イラク戦争当時から「戦わない」国として人道支援を掲げて従事してきたからこそ、現地の人々からの信頼を得、武力行使をしない国として歓迎されてきたはずだ。

 ISは差別や格差というひずみを口実に、ヨーロッパの論理で構成された社会で無差別に殺害行為を行うという非人間的な手段を世界各地に広げている。しかもISは“イスラム国”と名乗ってはいるが、いわゆる国ではない。ISの考えに同調した時点で、世界のどこにいようがイスラム国の一員として活動できるのだ。線で画された面ではなく、点のように世界各地のどこででもテロ活動を行うことができるということは、ある地域を攻撃したところでテロ活動を抑え込むことなどできそうもないということだ。
 そのテロ行為を抑止する戦いに向かう「有志国連合」の一員として名乗りをあげるということは、中東各地、あるいはヨーロッパ各地で差別や格差を生むことに何のかかわりもなかった日本が、まるで自分たちにも深くかかわる問題だとして“問題を生んだ原因国”の側に立って、しかも(専守防衛を掲げてきたこれまでの国のありかたを大きく変えてまで)武力で対抗しようとすることを意味するのだ。
 なぜそこまでアメリカに媚びるのか、不思議でならないのだ。アメリカに限らない。
 移民を受け容れるにあたって、フランス語を話すことを強要したり、ブルカを禁じたりするといった具合に多様性を認めてこなかったフランスなどに同調する、ということは同じ考えを持った国として日本がみなされることを覚悟しなければならないはずだ。

 テロに対する方策や北朝鮮への対応について、“抑止力”という言葉がよく使われる。 そのもっともらしい言い方を聞くと、思わず納得させられてしまいがちだが、抑止力とは英語で“deterrent”と表される。そのもとの意味は、「おじけづかせる」「脅す」というもので、決して「良い手段を工夫し案出して、させないようにする」という意味ではない。
このような“脅しつける”方策を是として積極的に武力で抑え込むという強硬手段に出るのは、賢いやり方ではあるまい。
 知恵を働かせて外交努力を重ねることの方が賢い国のやり方で、武力で防いだり阻止することに走れば、武力の応酬という負の連鎖に陥るばかりでしかなく、真の解決には結びつかないことは歴史がそれを証明しているはずだ。(某新聞の読者投稿による川柳に『武力ってむりょくとも読めますね』という句もあった。武力による解決はつまるところ真の解決とはならないのだ)
そうした“あってはならない負の連鎖”に国民を引きずり込もうとすることに、国民は懸念と不安、あるいは不信を強く感じているのだ。
 安全保障関連法を成立させる際に、国民には『丁寧に説明する』と言っておきながら、丁寧な説明がなされたのを聞いたこともないし、丁寧な説明をしたという報道に接したこともない。誠実に主権者である国民に向き合っているとは思えない現政権は、国民に懸念や不安そして不信を抱かせるに十分な存在なのだ。

 TPPの問題、対北朝鮮や対中国の問題といった対外問題ばかりでなく、沖縄米軍基地への取り組み、消費税増税や少子高齢化対策、待機児童問題といった国内の問題にしても、現政権の掲げる政策あるいは対応で「安心して委任できる」と思えるものは皆無であると言って良い。
 危うさと懸念ばかりが浮き彫りになるのは、そこに“リアリティの希薄さ”や“民に対するまなざしのなさ”、鷹山やムヒカ氏にみられる“知性による治政への姿勢が感じられない”ということに起因している。こうした政権下だからこそ、議員諸氏の劣化と言っても良いほどの暴言や低劣な発言が随所でみられるようになってしまったのだろう。
それはまるで『今なら何を言っても大丈夫。今のうちに言いたいことを言っておこう』と
自らタガをはずしてしまった緩んだ姿を露呈しているかのようだ。
 そうした自らの劣化を繕おうとするかのように、自分たちにとって都合の悪い反論をなすメディアを黙らせようとしたり、不都合な問題についてはみない振りをしようとしたり、不都合さを正当化するかのように法解釈をねじまげようとしたりするなど、民主社会を標榜する国で起きていることとは思えないような、危険な事態が続いている。
 
~この稿続く~

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主権在民

 名君と謳われた上杉鷹山は、政治家として“民へのまなざし”を重視し、為政者としての当事者意識を持ち続けることをつとめとして自らに課していたと言われている。
 彼の教育係としての学問師範を担ったのは、市井の学者細井平洲で、その薫陶を受けたからこそ鷹山は見事な政治を実践し、米沢十五万石を『公儀に返還するしかない』とまで考えられた藩の財政的な危難を救ったのだと記録されている。
 平洲は、若い鷹山に「春秋左氏伝」哀公元年の条を講じ、政治家にとって最も重要なことを諭したという。そこに記されている『国の興るや、民を視ること傷めるが如くす、その滅ぶるや、民をもって土芥となす』にふれたとき、鷹山はいたく感じ入り、涙をこぼしたという。強い共感を得たのは、そこに書かれている『政治は国民へのいたわるようなまなざしが大切であり、そうした国は必ず栄えるであろうし、国民をあくたのように扱い無視する国は滅ぶこと必定だ』という主張が、鷹山の民の暮らしを懸念する自己の心情に強く響き共感を得たからであろう。
 鷹山の施政によって藩が借財を精算することができたばかりか、経済的に潤ったということ以上に、こうした「民を我が事のように思いやる」観点から政治を執ったということが民に信頼や安心をもたらし、この藩の領民であることに誇りすら感じさせたのかも知れないということの方に強く感銘を覚える。
 民に徳を強いることに先んじて、領主自らが強い当事者意識を持ち、治政の徳を身につけ実践することを自らに課していた人物がいた(しかも江戸期という君主制の時代に)、ということを思うと何やら心がほぐれて誇らしい気分になれるではないか。
 いま、我が国はさまざまな面で混沌とした状況にあるように思われる。その多くが為政者の姿勢によってもたらされたものであることを思うとき、慨嘆を禁じ得ない。

 折しも“世界で一番貧しい大統領”の著者として知られるウルグアイの前大統領、ホセ・ムヒカ氏が来日して話題になっている。この本に関しては、ずいぶん前にこのブログで書いたことがある。ムヒカ氏は、グローバリズムに基づく経済的な成長や発展が“幸せになるために生まれてきた”人間の生き方を阻害していることを指摘し、足ることを知らない人々に『あなたは幸せか』という切実で重要な問いを投げかけている。
 新自由主義経済がもたらす多くの負の側面をわかりやすい日常のことばで指摘してみせ、それが持続可能な社会にとって好ましくないことを訴えてきたばかりでなく、自らの生活を“貧しいかも知れないが誇り高いもの”としてしてきたのだ。
 自分は物質的に豊かではないかも知れないが、『貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ』として、いたずらに競争による成長や発展をめざすことで失われていく大切な多くのものがあるのだと警鐘を鳴らしているのだ。
 深い思索と政治的な長い戦いに末に得た哲学的な論考に共鳴する日本人が多いということは、報道やネット上で取り上げられた件数の多さからも十分に推測できる。
と同時に、現在の日本が戴く為政者との彼我の差を思うと、何とも言えない残念な心持ち、暗澹たる思いを抱かざるを得ない。

 ここで話は変えたい。
 先日のことだ。みるともなく流していたあるテレビ番組で次のような場面に触れ、首肯させられた。それは、日本を訪れている“日本好きな外国人”に街頭で『日本を表す好きな漢字を一字書いて下さい』と依頼している場面であった。
 そこである男性外国人が“孤”という字を書いて、それが孤独や孤立の“孤”ではなく、「孤高」を意味するところの“孤”だと述べていたのだ。その外国人はよほどの日本通なのであろう。なまなかな日本人よりずっと正しい日本語で、適切に“孤”の持つ意味の違いを語っていたことに驚かされたが、そうした目で日本を見ていてくれることに少なからず安堵させられ、良い場面に遭遇したことを嬉しく感じたものであった。

 小さな島国である日本は、古来より隔絶されていたこともあって海の彼方に憧れ、そこに何があるかという知的好奇心を抱き続け、一方では自分たちの生活を取り巻く環境のそちこちに人智を越える神々の存在を感じて畏敬の念を抱き、尊崇の対象としてきた。
 そうした姿勢は“あれかこれか”を迫る一神教的な姿勢ではなく、多様なものを柔軟に受け入れることのできる世界でも珍しい心情を自らの中に培ってきたと考えられている。 奈良・平安の昔から大陸の文化に憧れて受け容れ、ついにはそれらを日本的なものに組み替え、独自の文化を作りあげてきたてきたのは、そうした精神風土があるからだ。
 それこそが、幕末期から明治維新に至る過程で欧風の文化を自らの体系にすんなりと組み込み、さらには先の大戦で壊滅的な打撃を受けながら短期間で奇跡的な復興を成し遂げることができたという潜在的な知的な力、技術を生み出す力のバックボーンとなっていたことは疑いようがない。
 それは、科学の力で自然をコントロールできるという“人間こそ万物の霊長である”とする驕りにも似た西欧的な人間観をベースとした自然観とは一線を画するものであり、畏れ敬うことを根源とした日本独自の世界観であるはずだ。
そしてそれこそが、日本人は孤高であるという、世界の日本観を形づくっているはずだ。いわば日本は、その独自のあり方で世界に貢献できるはずなのだ。

~この稿続く~
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