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安倍政権を問う3

◇反知性・反民主主義に立つ政権

 安倍首相がそこへ戻ろうと欲している「鬼胎の時代」と呼ばれた時代は、日本の歴史
上ほんの短い時代であり、本来あるべき理想の時代でなかった特異な時代であったこと
は言うまでもない。だからこそ「鬼胎」とも称される時代であったにもかかわらず、そ
れが日本の望ましい本来の姿なのだとし、そこへ立ち戻ろうとするのは、どうしたこと
であろう。
 私には、江戸期の人々が「鎖国」状態を、まるで長い歴史を持つ日本古来の祖法であ
るかのように勘違いしていたと同様の思い過ごしや認識違いに縛られているのではない
かと思われてならない。あるいは、祖父である岸信介の果たせなかったことを実現し、
祖父を見返したい、あるいは祖父を上回りたいという子どもじみた願望から抜け出せず
にいるのではないかと思われてならない。
 しかし、いずれにしてもそのような個人的なこだわりで、一国の行方を左右されてし
まって良いはずがない。行政の長の最大の務めは、何と言っても「国民のために」汗を
かくことに他ならないからである。彼の言葉を借りれば『国民の信頼を得て負託に応え
るべく、高い倫理観の下、細心の心持ちで仕事に臨む』ことこそ最大の使命で、自身の底
の浅い、そして高潔さとは無縁の幼稚とも思える「こだわり」に国民が巻き込むことでは
ないはずだ。

 私はかつてこのブログ内で、第一次安倍政権時代の安倍首相を「戦争を知らなすぎる
人物」と評したことがある。しかし、これまでの安倍首相の政策や発言、行為などを見
る限り、「知らなすぎる」のは戦争ばかりではなく、歴史認識や政治的素養、民主主義の
理念等々についても言えるのではないかと見ている。
 それは、学生時代の安倍晋三を指導していた出身大学・成蹊大学の元教員、しかも出
身学部である法学部名誉教授の加藤節氏のこんな発言からも窺えるからだ。
 『大学の4年間などを通して、安倍君は自分自身を知的に鍛えることがなかったんで
しょう。いまの政権の最大の問題点は、二つの意味の「ムチ」に集約されていると私は
思っています。一つはignorant(無知)、そしてもう一つはshameless(無恥)のこと。彼は
無知であることを恥じていない。』『彼は政治学科ですし、憲法もしっかり勉強しなかっ
たんでしょう。』
 散々な人物評であるが、第一次安倍内閣の当時、安倍首相が憲法改正を主張し始めた
頃に立花隆は「愚か者」とさえ称して、その主張を非難したものだ。
 ジャーナリストの青木理も、『安倍三代』(朝日新聞出版)を執筆する際、さまざまな
側面で取材した際の感想について、『結論をひとことでいえば、首相もその妻も、おそろ
しく空疎だった。それでも最大限の世辞をこめて書けば、育ちのいいおぼっちゃま。決
して悪人ではないが、何かに秀でたところがあるわけではなく、つまりは可もなく不可
もない平々凡々な男。少なくとも政界人りするまでは、現在のような右派的性向も見ら
れない。いや、政治的にも思想的にも、何ごとかの知を体系的に蓄積した気配も努力の
形跡もなかった。』と述べるほどに、加藤名誉教授や立花隆の見方を裏付けるような感
想を吐露している。
 
 この政権を語る時に「反知性主義」がこの政権を貫く性格だと言われる所以であるが、
それは致し方のないところであろう。
 小・中学生でも常識としている多数決についての考えにしても、数の力で反対意見を
上回れば、それを是として従うべきだ、と短絡的に考えているところにも如実に表れて
いるからである。
 私たちが小学生だった頃でさえ、多数決で決めるというのは議論をし尽くして最後の
手段で「決を採る」ことで、多数決そのことが何にもまして優先されるわけではないと
いうことを指導されていたし、だからこそ常識として持っていた。
 さらに、たとえ多数決で決まったことがらであっても、そこには少数意見が存在して
いたことを共通理解として持ち、その意見を尊重しつつ実践に移すべきだということも
承知していたのだ。
 しかし、現政権はそうした民主主義にとって大切なその基本的な考えを無視し、単に
多数の賛成が得られればそれで良しとばかりに、乱暴な採決により政策決定、法の成立
をさせてきた経緯を、これまでいやというほど見せつけられて来た。現政権を特徴づけ
ているのは、「反知性」だけではなく「反民主主義」だと言っても良い。

 その「反民主主義」の危険な匂いを隠すために、もっともらしい美しい言葉や威勢の
良いかけ声を発して、国民を煽動するかのように「言葉になかみのない」空疎で曖昧な
はずなのに期待を抱かせるがごとき発言に終始しているのは、明らかだ。
 どれほど精緻な検討を経た上での政策なのか不明な上すべりで安易なことがらが次々
と決定され、しかもその多くが政権にとって都合の良い『国民を統治し、支配する』と
いう意図を巧みに隠そうというものでしかない。その意図を隠すために美しい言葉とか
勢いのよい言葉が用いられていることを、国民の多くは知っているはずだし、知らなけ
ればなるまい。
 端的に言えば、今はまさに『美名を借りて忍びこむ「独裁」』の危機のまっただ中に
日本国民が置かれているということを承知し、我が事として見据えることが肝要なのだ
と思われてならない。
 
=この稿続く=

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安倍政治を問う2

◇祖父、岸信介の影

 安倍首相は、憲法改正について『我が党結党以来の悲願である』と事あるごとに主張しているが、そうではあるまい。
戦前・戦中の反省に立って、戦後70年にわたり現憲法の精神を守り、平和国家として
国際貢献のできる国づくりに戦後歴代政権は営々と取り組んできたはずだ。
 そもそも憲法は、先述のように首相をはじめ国家権力を拘束するものであり、政権を
担当する者が言い出すべきことではないし、まして政権が変わるたびに多数派が憲法の解釈を自由に変えることができるようになってしまったら、憲法が憲法でなくなってしまうのは当然のことだ。
 内閣に憲法の内容を恣意的に変更する権限はないにもかかわらず、それを勝手に変更
できるとする安倍首相の発言は、戦後保守政権がまがりなりにも掲げてきた諸原則すら
ことごとく否定し、自らのこだわりを「党の悲願」だと自らと国民に言い聞かせるよう
に欺いて民主国家を誤った方向に誘導しようとしているとしか思えない。

 どうやら安倍首相は、改憲を自らの政治的使命とするあまり、「自己の悲願は党の悲
願」であるはずだし、そうでなければならない、と考えているふしがある。
それも振り返ってみれば、岸信介の影響を色濃く受けていることに依るのだろう。
 岸は、戦時体制をつくりあげ、無謀で罪深い戦争を指導した一人だ。敗戦後、A級戦
犯容疑者として巣鴨拘置所に収監され、死刑を覚悟しながらも、奇跡的な政界復活を遂
げたが、国土を荒廃させ、多くの無辜の生命を奪う戦争を指導しておきながら、その責
任を「政治に挺身」することでとる、という都合の良い理屈をつけてのことだという。
 一方で、東京裁判をアメリカをはじめとする戦勝国の一方的な断罪だと考え、当時の
内閣とアメリカが二人三脚で築こうとした戦後体制、とりわけその指針となる憲法(戦
前・戦中への反省から政治の暴走を防ぐための堤防として築き上げた民主・平和憲法)をアメリカにとって都合の良い占領政策だとして、許せなかったのであろう。
 『岸信介回顧録』の中で、次のように論じている。
  「日本人の精神構造の変革、つまり日本国民の骨抜き、モラルの破壊に主眼が
   あったことは間違いあるまい。日本人の復讐心の芽をつみ、日本人は欧米
   人種に比べて劣等であることを思い込ませ、現在の敗北と苦痛は、あげて
   日本人の不法かつ無責任な侵略によってもたらされたものであることを徹
   底させるために、~中略~日本の国民生活の全分野にわたって強制、干渉、
   監視が仮借なく実施された。そしてその集大成が、今の日本国憲法である」
 憲法をこのように偏った見方でとらえることにより、憲法改正をすることが岸の悲願となったのであろうことは想像に難くない。
 
 それでも戦後70年間の保守政治は、憲法改正を言い立てるようなことをしてこなかったにもかかわらず、安倍首相は「結党以来の悲願」だと主張しているのだ。
 世界に誇るべき高い理念で貫かれた憲法を『みっともない憲法だ』と切り捨てるよう
に言ったこともあるが、それは、岸の現憲法に対する恨みと憎悪が安倍首相の中に息づき、その呪縛から逃れられずにいることの表れであろう。
 それはとりもなおさず、岸の血脈が安倍首相の中に色濃く流れていること、祖父の洗
脳がどれほど強いものであったかということを表しているが、それは安倍首相の個人的な話で、彼の家系で受け継がれた「拘泥」のために国のあるべき方向をやすやすと変えてしまって良いということにはつながらないことは論を待たない。
 
 岸は、指導性と見識を持った少数のリーダーが、民衆の2、3歩前に立って、民衆を
率いることこそ、民主政治のあり方として望ましい、とも証言している。つまり、国家
はエリートによって設計され、運営されるべきだし、民衆はその方針に従い統率されて
しかるべきだという考えをベースに持っていたことになる。
そこにはエリートの決定は常に正しいのだから、という驕りにも似た民衆を見下す姿勢
が窺える。それはまるで封建社会の為政者の姿を彷彿とさせるものである。
戦後民主社会で政界復帰を果たした後でもなお、そのような「国民を統率・統御」する
構えを崩さずにいたことから、戦前への回帰を危惧した大衆運動によって総理の座を追われたのだが、安倍政権のこれまでの政権運営に、こうした岸の国や国民を見る目と通底するものが見えてしまうのは、私一人ではあるまい。
 
 『日本を取り戻す』と言ったのも『美しい日本』と言ったのも、さらに『愛国心、
愛郷心を育てる』ことの重要性を説いたのも、どれもこれも戦前・戦中の欽定憲法下
の日本という国のありように対する郷愁があるからだ。
 それは、司馬遼太郎が言う「鬼胎(異胎)」の時代への憧憬に他ならない。
 現在の三権分立が正しく機能していない政治状況を眺めると、まさに「明治憲法下の法体制が“不覚”にも孕んでしまった鬼っ子のような」日本史上の特異な時代の再来を予感させるが、そんな“特異”でしかない時代を「日本の本来あるべき社会」だ
としてそこに立ち戻ろうとしていることを認めてしまって良いかどうか、国民は透徹した目で見、考える必要があるであろう。

=この稿続く=
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安倍政治を問う

 先月初め(2018/04/04)、安倍首相は東京都内で開かれた国家公務員合同初任研修の
開講式で挨拶し、その中で『国民の信頼を得て負託に応えるべく、高い倫理観の下、
細心の心持ちで仕事に臨んでほしい』と訓示したと各メディアで報じられた。

 “高い倫理観”をベースに行政の長を務めている人物とは対極にあるとしか思えな
い安倍首相の口から、臆面も無く平然と、しかもこれから国家公務員として“公僕と
しての任への意欲と志”に燃えてその責に就こうとしている若い人たちに向けて、こ
のような「自分自身を棚に上げした」としか思えない訓示を垂れるとは、恐れ入るば
かりだとの感想を抱いた。

 しかし冷静になって考えてみれば、日本語の持つ意味について、私たち一般市民と
は隔たりのある認識を持っているとしか思えない彼の人のことだ。“高い倫理観”とい
う言葉ですら私たちの常識的な理解とは異なる認識をしているのかも知れないと思えば、
それほど驚くことではないのかも知れないとも思い直した。
 これまでも『丁寧に』『説明する』『真摯に』『対応する』と言いながら、そうしたこ
とがなされたのを見聞きした覚えがないのも、それらの言葉に対する解釈や認識が私た
ちと異なるのだと思えば納得が行くからだ。

 彼の人の誤った認識と理解は、言葉だけにとどまらない。社会の仕組み、政治の仕組
み、民主主義のありよう、民主主義や立憲主義等々の理解などさまざまな面について、
どこかで常識の欠落があるのではないか、これは一体どうしたことだと強い違和感を抱
かざるを得ないほど、過誤に満ちているように見受けられてならないのだ。

 私が想像するに、彼の人が言う“倫理観”とは、「人として守り、行うべき普遍的な価
値についての考え方や捉え方」という普遍的なよさをめざす価値観のことではなく、上の
者の意向に従順かつ唯々諾々として従い、その意向の実現に向けて献身的に努めようとす
る考えのことだと思われてならない。
 安倍首相は、第一次安倍政権の時に、「国民の教育を受ける権利」を保障した教育基本
法を書き換え、「教育を受けるべき存在」として国民を規定し、今次の政権下では道徳を
教科化して、かつての修身と同様に、徳目を教え、徳目に沿って生きることこそ良しとす
る「国のために尽くす人間」を育てようという方針をあからさまにしてきた経緯があるか
らだ。
 国民主権を柱とし、個人の尊厳を標榜する民主国家にあっては、考えられないような恐
ろしい事態が着々と進行していることに、私たちは気づかなければなるまい。
 その仕上げが先に打ち出された「ひとづくり革命」であり、憲法改正だ。
 
 “革命”とは、古代中国で、天の命を受けた支配者に暗君が出現した際に、天命が改ま
り、王朝が変わること、すなわち政治権力が暗君から明君に代わることに由来する言葉
で、政権を持つ者が言う言葉ではないことは自明の理である。
百歩譲って「改革」と言うべきところを「革命」と言ってしまったのだとしても、重要な
ことは教育という社会にとって大切な作用を「ひとづくり」と言っていることである。
 教育は「工場」のように一定の、そして同質の製品を“つくりだす”作用ではない。
それぞれに自分の考えを持ち、その信じるところに従い、よさの実現に向けて生きる“自
立した市民を育むこと”が教育の務めだ。
 この政権のこれまでの政策を見るに、自立し、成熟した市民が育つことよりも、政権に
とってその指示や命令に従う都合の良い民を育て、ひいては国のために生命も惜しまない
「尽忠報国」の民を求めようとしているとしか思えないのだ。

 この政権には、「戦後レジームからの脱却」と主張し始めたころから危うさを感じてい
たが、その総仕上げが憲法改正であることは火を見るより明らかであろう。
憲法が政権の暴走を食い止めるブレーキとしての機能を持つことは周知のことだが、現政
権は以前から『国民も憲法遵守を』と言い募り、国民をある方向に縛る基本法として位置
づけたいという意図を隠そうとはしていないからである。国民主権などはもってのほかだ
という支配者然とした姿勢が、この政権の誕生時からの一貫した姿勢なのだ。

 安倍首相の祖父である岸信介は、『岸信介回顧録』の中で「真の独立」を支える日本人
の精神を、「特攻隊に象徴される勇敢さや、上官の命令には絶対に服従する規律の高さ、
降伏よりは死を選ぶ武士道の精神及び、国民の困苦欠乏に耐える堅固さ、そして団結心な
ど、日本人全体の道徳的水準の高さ」だと論じている。
 これはまさに、現在の安倍首相の主張そのものではないか。
その考えの実現にアプローチする具体的な手段が、世界に誇るべき優れた憲法を変えるこ
とであり、同様に教育基本法の改悪であり、道徳の教科化による「ひとづくり革命」の実
施、安保関連法案の強行採決などによる地固めであろう。
 いずれ、国民は絶対服従を強いられ、死をも厭わずに「粉骨砕身」して励むことを誇り
とするような“立派な日本国民”になれ、という全体主義に(しかも国民の自覚しないう
ちに、いつの間にか)追いやられることは想像に難くない。

=この稿続く=


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「まっとうな国」にするために

 どこまで国民を愚弄するつもりなのか、安倍首相は「国難突破解散」と称して衆議院の
解散を、それも臨時国会冒頭での解散を宣言した。
 安倍首相は、少子高齢化に対応するために予算の使い道を変える財政再建を図るための
解散であり、一方では朝鮮情勢もなかなか厳しい、これからどう対応するか、むしろ国民
に問いたいとして、解散するのだという。いわばこれら二つを「国難」としているのだ。

 だが、予算の使い道を変えるというのであれば、それは解散などせずとも国会でよくよ
く議論を尽くせば良いことではないか。そのために内閣の専権事項である解散をするとい
うことに強い違和感を覚えて仕方がない。
 また、北朝鮮情勢が厳しいというが、それはある面「自身が招いた」状況ではないか。
 日本は軍を保持し、世界の警察よろしく海外で戦うことを是としたアメリカとは立場が
異なるにもかかわらず、アメリカに追従し、またはアメリカのお先棒を担ぐかのように、
「北朝鮮への圧力を」と声高に主張して、まるで軍事力を発揮してでも「制裁し押さえ込
む」ことを狙ったかのように国際社会で発言し続けてきた結果、北朝鮮から「対アメリカ
同様の敵視」を受けることになったことは疑いようがない。
 日本にはアメリカとは異なる日本独自の外交努力を発揮して、平和的に問題の解決を図
ることが求められるし、多くの国民が望んでいるのはそうした「まっとうな政治姿勢」で
あるはずだ。

 「国難」という仰々しい、そして戦前・戦中を彷彿とさせる時代錯誤で嫌悪感を催させ
る言い方にも違和感を覚えるが、時の為政者が内政問題に不都合な問題が起きると、国民
の目をそらすために対外問題をことさらに大きく印象づけ、危機感を煽る効果的な手法が、
このように「国難」を言い立てることのはずだ。
 森友問題、加計問題、そしてアベノミクスの失敗と行き詰まり等々、外に目を向けさせ、
自身の都合のためにことさらにそれを言い立てて、打開を図ろうとしているのだろうとい
うことは、私のような政治の素人でも容易に推測が立つ。
 その一方で、今回の衆院解散、総選挙を経て与党が過半数を得、安倍政権続投というこ
とにでもなれば、解散理由にはなかった「改憲」に弾みをつけたいという思惑もあるはず
だ。安倍政権はこれまでも、公約になかったことでも『国民の支持を得た』とばかりに、
まるで白紙委任でもされたかのように次々と矢継ぎ早に(十分な議論もせず、数の力で)
自身のこだわりに基づく法案を成立させてきた政権である。
 今回も『勝てば官軍』とばかりに、憲法をないがしろにした改憲への歩みを急ぐであろ
うという推測と怖れを捨てることはできないはずだ。
 どうやら長州人のDNAには、その『勝てば官軍』で支持を得た暁には何をしても良い
という心情があるのではないか、と考えればれまでの強引な政権運営について納得がいき
そうであるが、それは長州の人に失礼かも知れない。

 それはさておき、今回の総選挙は、日本が国際社会の中で「まっとうな政治」が行われ、
真の意味で国民が「安心・安全」を得て、諸外国からリスペクトされるような国として在
ることができるかどうかの選択の場だということが言えるであろう。
 その意味で、私たち国民は透徹した「見抜く目」「見極める目」といった眼力を働かせ、
議員の選出にあたらなければならないはずだ。
 少なくても『ほかに選択肢がないから』などという消極的な理由で国政への唯一の参政
権を無駄に行使することのないようにしたいものである。
 
 いずれにしても、挑発的な言辞の応酬、分断や差別に基づく政策、軍事力による制圧な
どからは望ましい何事も生み出すことなどできはしないはずだ。
 孫子は、『兵とは国家の大事なり、死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。(戦
争とは国家の大事である。国家の死活が決まるところで、国家の存亡の分かれ道であるか
ら、よくよく熟慮せねばならぬ)』と戦争はしない方が良い、という基本的な姿勢をまず
語っている。
 それは現在でも通じる考えだ。アメリカのトランプ大統領の乱暴な、そして決して高潔
とは言えない数々の発言とそこに示される大統領としての底の浅さに接する度にうんざり
とさせられている私たちである。日本の政治がかの国と同じように見られること、同種の
国であると見なされるようなことがあってはならないはずだ。
 勇ましく戦い、人を殺し、力でねじ伏せる国をめざすのか、知力を発揮して外交に努め
て平和的に問題を解決する「高みや深み」を理念とした国をめざすのか、そのどちらを選
択するのかを問われているのが今回の選挙だ。
 いわば、高い視野からものごとを見極め、国際協調に「たかだかとした理念」を掲げて
貢献できるような国になること、そして国民がそれを誇れるような国になるための正念場
が今だと言って良いのではないだろうか。

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教育への圧力

 教育現場に特定の偏った主張を押しつけ、教育の独立性や公平さを阻害する
ような抗議について報じられている。
 他でもない教科書検定に合格した歴史の教科書を採択した神戸市の私立灘中
学校に対し、圧力まがいの抗議の電話やはがきが寄せられているという報道で
ある。採択した教科書の従軍慰安婦を巡る記述等が理由とみられている。
 同校の和田孫博校長はてんまつを公表し「政治的圧力だと感じざるを得ない」
と指摘しているという。
 教科書の採択については、公立学校では教育委員会に、国立、私立の学校で
は校長に権限があり、その自主的な判断に委ねられていると法で規定されてい
る。
 私立の灘中では、教員による採択委員会で「歴史の基本である、読んで考え
ることに主眼を置いた教科書で、能動的な学習に向いている」として「学び舎」
という出版社が作る新規の歴史教科書「ともに学ぶ人間の歴史」を採択し使用
することを決定したのだ。
 この学び舎出版の教科書は、灘中以外にも麻布中学校や筑波大学附属駒場中
学校、東京学芸大附属世田谷中学校など、少なくとも国立5校、私立30校以
上で採択されたという。

 ところが一昨年から昨年にかけて、自民党の兵庫県議や衆議院議員から和田
校長に「なぜ採用したのか」と問い合わせがあり、その後、同じ文面だったり、
同校OBや親を名乗ったりする抗議のはがきが200通以上寄せられたという
のだ。
 その間の事情は、富山大学教授・松崎一平富山大教授が代表をつとめる「グ
ループ帆」が編集・発行する「とい」という論文集に掲載された『謂れのない
圧力の中で──ある教科書の選定について──』と題された和田校長の論文に
詳しく述べられている。
 重ねて言うが、採択され使用されているこの教科書は文科省の検定(平成27
年)を通っているのだ。すなわち、この教科書を学校が採択し、使用すること
については何一つ問題はないのだ。
そうであるのにこうした“ありうべかざらる”抗議行動がなされているという
のだ
 このように正当な手続きを経て採択された教科書について、個別の学校に執
拗な抗議が集中し、圧力をかけるかのような動きあるという事態は、憲法で保
障される教育の独立性が脅かされる“あってはならない”ことだ。

 毎日新聞によると、『学び舎の教科書は、第二次大戦中の慰安婦問題につい
て、旧日本軍の関与を認めた「河野洋平官房長官談話」(1993年)を紹介して
いる。このことが抗議の背景にあるとみられる』と記されているが、どうやら
そこには多くの議員も所属するところの日本会議やそれに呼応する極右の歴史
修正主義者の動きが大きく働いているのではないかと見られているようだ。
 この学び舎の教科書は歴史修正主義の右派から強く敵視されていたという
が、どうやらそれはこの教科書が平成16年度検定以降、他の中学校教科各社
が一切採用しなかった慰安婦問題に言及し、河野談話も取り上げたからのよう
なのだ。
 自民党議員が「政府筋の問い合わせ」として、和田校長に対し「なぜあの教
科書を採択したのか」などとわざわざ問い合わせたのは、こうした歴史修正主
義の立場からプレッシャーをかけてきたものと見られている。
 しかも自民党議員からの「問い合わせ」の翌月から、「何処の国の教科書か」
「共産党の宣伝か」などと誹謗する匿名のハガキが灘中に次々と届きだしたと
いう。このような動きを見る限り、日本会議や歴史修正主義者の関与があった
のではないかとの疑いを拭うことはできない。
 
 こうした反動的な動きが顕著になったそもそもは、第一次安倍政権からの戦
後民主主義を否定し、戦前・戦中体制に立ち返ろうとする「戦後レジームから
の脱却」を方針として掲げてきたことによる。
 教育基本法を改悪し、教育の主体を国民から国へと戻し、国民を「教育され
るべき存在」として規定し、道徳を徳目(とりわけ愛国心)について習得させ
る教科とするなど、国民の教育を受ける権利と自主性を奪う方向に大きく舵を
切ってきたのが現政権だ。教育勅語を美化して尊重し、戦後の「教育勅語等排
除・失効」の決議を無視して『親孝行や友だちを大切にするといった核の部分
は取り戻すべきだ』などという、教育勅語の本質部分とは異なる“美化された
抹消部分”のみに着目した浅薄な考え・主張を平然と披瀝する国会議員が出現
する事態になったのも、現政権のそうした姿勢によるはずだ。

 この政権、そして政権と主張を同じくする“右に偏向する勢力”の動きが、
今回のような学校の自主性・独立性を阻害しようとする乱暴な圧力の背景にあ
ると思われてならないが、学校教育は戦中の「国民学校」で展開されたような
“国に従順に奉仕する小国民”を育てるための強制教育機関ではないのだ。
成熟した市民として“よりよい生き方”をめざすことができる個を育むこと、
そのために“自ら考え、見極め、判断・決定”する能力や構えを子ども自身が
身につけていくことができるよう教育環境を整え、実践することが学校教育の
目的なのだ。
 日本が明治維新を経て近代国家に生まれ変わり、富国強兵を実現するために
何よりも急いだことは学制を布くことであり、そこで柱とされたのは、大久保
利通の著した「政府ノ体裁ニ関スル建言書」(1869)にある『マズ無識文盲ノ
民ヲ導クヲモッテ急務トスレバ、・・・教化ノ道ヲ開キ学校ノ制ヲ設クベシ』
で明らかなように、国民を教化するという論理であった。その論理はそのまま
歴代政府に踏襲されて、やがて日本の教育政策の体質となったが、それは教育
が“国家のための”“国家による”仕事と考えられてきたことを如実に表して
いる。
 それに対して、当時の日本が目標とした西欧圏の諸国では、教育を人間とし
ての個々人のためのものと考えられてきた。決して国家のためではなく、あく
までも人間の生活のために教育があると基本的に考えられてきたのである。
 国家や組織が人材育成をする上で持つべきは「何のための教育か」、「誰の
幸福のための教育か」、「その教育の価値観は広がりを持つか」などについて
の高々とした基本理念であろう。

 しかし、残念なことに現在の我が国の教育をとりまく環境は、そうした望ま
しさとは乖離していくようにしか見えない。国が決めた「価値」を教え伝えて、
鋳型にはめこむようにして思考停止を促し、考えたり創ったりすることを「放
棄する人間」を育成することの過ちは歴史が教えてくれているにもかかわらず、
一定の価値を(それも偏った価値を)教え込むことこそ教育だとして議員や政
党、団体などが圧力をかけるということが定見無しに行われれば、それは教育
の重大な危機だと言わざるを得ない。
 しかも、それが「自虐史観からの脱却」などということを名目に、国会で多
数を占める政権与党の所属議員の手によって行われているとすれば、看過でき
ない問題だ。
 
 考えるまでもないことだが、安倍首相と彼を取り巻き“彼の権限を利用しよ
う”とする人々については、未だ解明されていない多くの疑惑がある。
森友学園や加計学園、そして閣僚の問題発言、さらに今回の抗議等々、いずれ
も戦前・戦中をノスタルジックに希求し、立ち返ろうとする安倍首相の姿勢を
好機としてもたらされた動きである。
 今月4日に発表された内閣改造によって、この政権の支持率が微増したとい
う報道に接し、驚きを禁じ得ない。閣僚の顔ぶれが変わったからと言って、総
理大臣の希求する戦前回帰の構えや“国民及び国会軽視”の姿勢、反知性主義
といった核の部分は何も変わっていないからである。
 国民と国のためではなく、自己のこだわることがらの実現のみに向けて前の
めりになり、矢継ぎ早に議論を避けるように多数決を頼みにして「決めすぎる
政治」をこれからも行うであろうことは火を見るよりも明らかである。
にもかかわらず、閣僚の顔ぶれが多少変わった程度で、支持率がわずかでも上
がるということは、国民の「そこにある危機」を見抜く目、すなわち眼力の衰
えの証なのだろうか。
 それはともかく、今回の事態のような“教育への政治的な圧力”がかかるよ
うな教育の危機は、安倍政権が続く限り避けることはできないように思われる
のだが、いかがなものであろうか。

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内閣支持率の急落について思う

 通常国会が閉会した先月19日に、安倍首相は記者会見を行い、次のように
コメントした。
 『「信なくば立たず」だ。何か指摘があれば、その都度真摯に説明責任を果
たしていく。~中略~4年前の原点に もう一度立ち返り、建設的な議論を行
い、結果を出していく、そうした政治が実現するよう、政権与党としての責任
を果たしていく。国民から信頼が得られるよう、冷静に一つ一つ丁寧に説明す
る努力を積み重ねていかなければならない。その決意を、国会閉会にあたって
新たにしている。』

 ところが野党各党が国会の閉会中審査を求めたのに対して、政府と自民党は
東京都議選前には「必要ない」として拒否を続けてきた。
 ここでもいつもの通り“丁寧な説明をする”というコメントとはうらはらに、
“不要だ”という逃げるかのような姿勢を示してきた。
 しかし都議選で歴史的な惨敗を喫したことを受け、何とか信頼回復の手立て
を打とうということなのだろう。しぶしぶ「閉会中審査を容認する」というこ
とを報道で知った。
 だが、その日程について提案されたのは、首相が不在の今月10日あるいは
11日だったという。安倍政権不支持の大きなファクターは、安倍政権の政治
姿勢であることを考えると、安倍首相が出席しない審査は、開く意味がすこぶ
る希薄なものになると言わざるを得ない。
私のような素人でも“逃げ回るのか”という疑いを払拭できない。
 その後の経緯を見ると、現在のところ自民党の竹下亘国対委員長氏が「10
日の審査状況を見た上で、(首相出席を)総合的に判断する」と柔軟姿勢を示し
たため、10日の閉会中審査実施で折り合ったというところで折り合いがつい
たようである。
 そしてまた、民進党は首相が帰国する12日以降、衆院予算委で閉会中審査
を行うよう引き続き求め、参院でも10日に内閣と文教科学両委員会の連合審
査を行う見通しで、自民、民進両党の参院国対委員長が明日5日に協議すると
結論が先送りされたという。

 先日のこのブログでも書いたが、都議選で自民党が大敗した最大の要因は、
安倍政権の持つ「体質」そのものだ。議論を封じ、メディアを恫喝して黙ら
せ、人事権を盾に官僚をコントロールし、国民の権利をないがしろにし、政
治を恣(ほしいまま)にするために都合の良いように憲法を書き換えようと
する「根っこ=素性」に言いしれぬ怖れと怒りを覚えるから、「ノー」を突き
つけたのだ。
 『丁寧に説明する』と言ったその舌の根の乾かぬうちに、説明する機会があ
るにもかかわらず口実を設けて逃げ回る姿勢は、“説明のつかないことをして
いる”に違いないという疑いをますます抱かせてしまうことになりはしない
か。

 “説明がつかないこと”と言えば、先日の文春ON LINEで驚くような記事を見
つけた。
 国家戦略特区に関し、獣医学部新設を全国展開する考えを示した安倍首相だが、
その理由について側近に対して、『あまりにも批判が続くから頭に来て言ったん
だ』と吐露したのだと記されていた。“頭にきたから”というような、首相の個
人的な感情で国家戦略特区制度の規定を覆してしまって良いはずがない。
まるで、「首相は超法規的な存在だ」と言っているようなものではないか。法を
遵守することが為政者には最も求められているはずだ。
法に対して、あるいは規定に対して、そのような思い上がった勘違いをしている
から、『自民党は立党当初から党是として改憲を掲げている』などという誤認に基
づく主張が平然とできるのだろうし、そのこと自体が“説明がつかないこと”あ
るいは“説明ができないこと”であることを示していると言える。
 
 個人的と言えば、今回の閉会中審査や臨時国会の招集について拒否の姿勢をかた
くなに続けてきた理由について、「首相は加計問題について追及されることを嫌
がっている」(竹下亘自民党 国対委員長)とか「安倍晋三首相は加計問題につい
て追及されることを嫌がっている」(共同通信 6月27日)といった報道を見る限
り、どこまで個人の都合で国政を操作しようとしているのか、と驚いたり呆れたり
嘆じたりするばかりだ。
これではまるで子どもではないか。子どもでも、試験を受けるのが嫌だから学校を
休むなどということがまともな理由にならないことは承知しているはずだ。
 
 これまでの安倍首相の言動を見る限り、自分に異見を持つ者を「敵」とみなし、
そうした人々と意見を交換して互いに納得できるよう努力することを避け、いたず
らに攻撃的な態度ばかりを示してきた。異見に聴く耳を持たず、討議の本筋とはか
かわりのない事柄を以てヤジを飛ばしたり、個人攻撃をしたりする場面が目に付く
からだ。
異見を持つ野党議員の向こうに、国民がいると認識していれば、そのような乱暴な
態度はとれないはずだ。彼にとっては、野党議員に投票するような国民、野党議員と
同じ考えを持つ国民は、自らが奉仕すべき対象ではなく、負かさなければならない
“こんな人たち”ととらえているに違いない、と思わせるに十分だ。
 憲法十五条に、「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」
と明記されているにもかかわらず、公務員である自分が奉仕者であることをすっかり
忘れてしまっているかのようだ。
 また安倍首相は、多数決による決定が民主的な決定だと胸を張って主張する姿が印
象的だが、それが誤認であることは子どもでも知っている。多数決は議論をつくした
上での最終的な決定手段だが、それでも少数意見を尊重するという態度を放棄すべき
ではないと小学校でも学習するからだ。

 そのような民主主義のイロハすら無視して十分な理解を得るための議論を避け、“議
論は尽くされた”とばかりに多数を占める与党議員数を背景に強引に、そして次々と決
めすぎる政治を行ってきた安倍政権のやりように不審感を抱き、憤りを覚え、危うさを
感じているからこそ、世論調査で支持率が危険水域に入るほどに下がっているのだ。
 内閣改造で閣僚の顔ぶれを変えるなどということで国民の信頼や期待が得られ、支持
率が上がると考えているとすれば、それは間違いだろう。なぜなら、内閣不支持率の急
落は安倍首相の政治姿勢に対する不審・不信が原因だからだ。何よりも自身が「全体の
奉仕者」であるという自覚が希薄な人物が民主国家、法治国家の舵取り役としてふさわ
しくないと強く感じ、これではいけないと強い懸念を抱いているからこそ、「ノー」を
突き付けているのだ。
森友学園の問題、加計学園の問題、閣僚の問題発言等々は、政権を貫く政治姿勢や政治
感覚がもたらした個々の現象でしかない。一切の問題の解消するために必要なことは、
その根を断つことだ。
 ここ数年の政治の劣化を招いたのも、戦後の民主体制を嫌い、戦前・戦中の国家体制
を憧憬し回帰を図ろうとする無謀な政治家が政権を握ったことが最大の原因だ。
 将来こうした政治家が出現しないよう、そして民主国家としての日本が危うくならな
いよう私たちが肝に銘じなければならないのは、国民一人ひとりが見極める目を持ち、
その透徹した目で政治を監視することだ。

 ここまで書いてきたところで、何が起きたのか一転、これまで出席を拒んできた首
相が閉会中審査に出席するという報道を目にした。国民への一層の説明が必要だと判断
したためだと報じられているが、どうであろう。
 説明をすると言ってはいるが、これまでの例を見ると説明にならない説明を繰り返し
て終わるのではないだろうか。おそらくそこでは自分の主張を一方的に繰り返したり、
質問それ自体とは関わりのない個人攻撃をしたりはぐらかしたりすることで目をそら
そうとするのだろうということは、想像に難くない。
 聞くところでは、与党内からも安倍首相の退陣を迫る動きがあるようだ。また、地方
の自民党県連などでも同様の動きがあるという。
 多くの人の目にも、見えすぎるほどに見えているということなのだろう。閣僚の顔ぶ
れを変えたところで、そして現政権の内包する“危うさ”を取り去らない限り国民の信
頼を取り戻すことなど不可能だということに。
 それにしても、この政権の乱暴な仕方によって国民の失ったものの多さを思うと、そ
してそれを取り戻す道の遠さを思うと、暗澹とするばかりである。
 民主国家の危機とも言えるこうした事態にあたって、国民はよくよく学ばなければな
るまい。迂闊な投票行動が、いずれ自分たちの首を絞め、不自由な国にしてしまうのだ
ということ、そして監視の目を怠ればそういう不都合な事態が容易に訪れるのだという
ことを。

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都議選で自民大敗

 東京都議選の開票速報が続々と入ってきて、どうやら都民ファーストの会が圧勝する
模様である。
 一方の自民党はこれまでで最低の議席数しか確保できない大敗の予想だと報じられて
いる。
 やはりと言うべきか、国政に於ける安倍政権下に於ける自民党の傲慢、不遜、乱暴な
国会運営と国民の負託を越えた「決めすぎる」安倍政治に不信感を強めた都民の声なき
声が、大きく動いた結果であろう。
市民の力を見くびってはいけない、ということの象徴的な現れだ。
 自民党は国政への影響をできるだけ抑えるために、内閣改造を急ぐことを考えている
ようだが、閣僚の顔ぶれを入れ替える程度の弥縫策では、もはや国民の支持を勝ち取る
ことはできまい。
 安倍自民の正体が、国民の知る権利、表現する権利をじわじわと奪い、官僚の人事権
を掌握して行政を歪め、そうした力を背景に支配力を強めて戦前・戦中の体制を憧憬す
るかのような恐ろしさを隠し持ったものだ、ということに国民の多くが気づいてしまっ
たからだ。
 そうした動きのことごとくが戦後民主主義を否定するもので、憲法を、国会を、議論
を、国民を軽視したり無視したりするといった具体的な姿からも透けて見えすぎたこと
による。
 政策の多くが現憲法下では説明のつかない矛盾に満ちており、多数決で強引に押し通
すしかないという無理なものだったということが議論の軽視につながっていることは明
らかだ。
 そしてまた、多数決で決まれば民主的な手順をクリアしたことになるという誤謬が、
一強と言われた環境の中では、たとえ“委任されたものでなくても”“白紙委任されたもの”
とみなし、政権の打ち出した政策や法案は押し通して良いのだ、という驕りを生んでし
まったのだろう。
 国民が(都民が)ノーをつきつけたのは、内閣改造などという付け焼き刃で繕えるよ
うなものではなく、この政権の持つ「めざすもの」「手法・手段」そのものだからだ。
 つい先ほどのニュースでは、自民都連の下村会長が『国政に深刻な影響があることが
予想されるが、それでも憲法改正の論議を進める』と語っていると報じられた。
 安倍政権下の自民党にはわかっていないのだ。国民の多くが憲法改正を望んではいな
いし、そのようなことを負託したわけではないのに、その方向に前のめりになっている
政権与党に言い知れぬ不安と怖れ、懸念を抱いているのだということを。
 この期に及んでなお、自分たちの何に齟齬があったのかということに気づかなければ
国政を担う資格はないと言って良いはずだ。
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暴走政権に歯止めを

 この数年間、政治の暴走ぶりと劣化をおぞましいものを見るような憂鬱な思いにとらわ
れながら眺めてきたが、ここに来て、国民の多くにもその憂鬱の正体がわかってきたので
はないかと見ている。
 憲法に記されている通り、閣僚であれ、官僚であれ、公務員は「全体の奉仕者であって、
一部の奉仕者ではない」はずなのに、“私(わたくし)”の都合で政策をいじりまわす、
文字通りの恣(ほしいまま)の姿に慨嘆しつつ、驚きを通り越して怖れをようやく感じ始
めている人々が多くなっているのではないかと思われるからだ。
 どこからどう見ても戦後最低・最悪の政権であると見るのは私ひとりではあるまい。
 小中学生でもわかるような、公民の基本的な考え(民主主義の理念や権利についての考
え、政治の仕組みのあれこれに関する知識等々)について、無知・無視とも言えるような
さまざまな言動を見るにつけ、議員の劣化が甚だしいと言わざるを得ない。
 それは取りも直さず、リーダーの無知と無恥がもたらす傲慢で乱暴な姿勢を見て、下が
それに倣うからこそ生まれた「劣化」であると言っても過言ではないだろう。
 この国の現在のリーダーは、「議論」や「説明」、「謝罪」という言葉の概念についての
理解が浅薄なようだが、浅薄どころか言葉の意味を取り違えていながら、あっけらかんと
自らの誤った理解を他に押しつけるという“やんちゃぶり”を幾度となく露呈している。
 
 支持率が急低下したことを受けて先日(19日)に行った会見でも、表向きは反省とい
う言葉を口にしていながら、 『印象操作のような議論に対して、つい強い口調で反論し
てしまい、政策論争以外の話を盛り上げてしまった』と、まともな議論ができなかったの
は、加計学園の獣医学部新設について自分の働きかけがあったのでは?と追及する野党の
姿勢が原因だというかのような発言をし、まるで反省などしていないということを国民の
多くに知らしめてしまい、「反省」という言葉の意味や重みを理解していない人物である
ことをさらけ出してしまった。
 また、同じ会見の中で、『「信なくば立たず」だ。何か指摘があれば、その都度真摯に
説明責任を果たしていく。』と口にしたものの、先日来からの稲田防衛大臣の憲法違反に
問われかねない発言に野党から罷免要求や臨時国会召集、閉会中審査実施を要求が出され
ても、拒否するといった姿勢からは、“丁寧あるいは真摯に説明”しようという意思は窺
うことはできない。(もっとも、説明をすると言って、何の説明もしないのは、この人物
のいつもの姿だが・・・)
おそらく「説明」という言葉の意味がわかっていないのだろう。
 
 国会が議論の場であり、言葉を尽くして意見を戦わせる場でありながら、空虚な言葉ば
かりが飛び交い、前言を覆しても、それ自体問題ではないという開き直りにも似た「傲慢
さ」「不遜さ」「横柄さ」からは、“国と国民のためにという奉仕する”立場にあるという
自覚が微塵も感じられない。
 前言を翻すと言えば、これは誰が見ても万事休すだろうと思われることを平然と言って
のけたのを見て、驚き呆れてしまった。
 それは他でもない「加計学園」に関する問題について、『権限を一切行使することも、
全く関わることもなく、自分とは全く関係ないところで行われたものだ』と説明してきた
にもかかわらず、その当の本人が『1校に限定して特区を認めた中途半端な妥協が、結果
として国民的な疑念を招く一因となった~。今治市だけに限定する必要は全くない。地域
に関係なく、2校でも3校でも、意欲あるところにはどんどん新設を認めていく』と自分
の権限をもってすれば新設が可能なのだ、とあたかも「自分が関わり認可したもの」と認
める発言をしたからだ。
 これだけでもこの内閣を不信任に追い込める一大事だが、一方でこの政権の持つ恐ろし
い面も浮き彫りになった。
 それは、この発言が安倍氏を庇い支えてきた和泉洋人・内閣総理大臣補佐官とか官房副
長官といった人々の労(それ自体も問題ですが)を全否定し切り捨てるかのような振る舞
いだからだ。つまり自分にとって“都合が悪くなれば”、どんなに協力、支持、支援した
存在であっても、いとも簡単に切って捨てることに何の痛痒も感じない特権意識をバック
ボーンに持った人物が首相だということを自らさらけ出してしまったのだ。

 それはともかく、論理の矛盾どころか、白を黒と言い換えても、それ自体何の問題もな
いとする自己肥大の感覚、正当に関する感覚の欠如が、この暴走政権のエネルギーの正体
だと言っても過言ではないと私は見ている。
 失言があっても「撤回」や「謝罪」をし、いっときの風が収まればまたぞろ同じような
失言が繰り返されるのも、根っこにあるエネルギーとベクトル、つまり本音が撤回された
り修正されたりすることがないからであることは明々白々。
 そうした政権のもとで乱暴な手法で急ぎ成立させられた各法は、いずれその時々の恣意
的な理由を盾に、国民と国を窮地に追い込むようなものになることも想像に難くない。
 文字通り、権力を「私(わたくし)」して「恣(ほしいまま)」にしようとする政権で
あること窺わせるような場面をイヤと言うほど多く見てきたからである。
 成立時に言い訳のようになされる『国益』『国民の安全のため』という言葉を迂闊に信
じてはいけない、と気づき始めた国民の意識の変容が不支持率の増加につながっているの
ではないだろうか。
 
 説明することを「自分の主張を一方的に言い募ること」と勘違いし、議論を「自分の説
を受け容れさせる手段と場」という誤謬に立脚しているからこそ、問題点を指摘されると
イラ立ち、声を大にして議論とは無関係な相手の瑕疵を言い立て、野次を飛ばしてでも自
分の正当性を押し通そうと強引な手段に出るのだ。
 それは自分の主張が通らないと、『なぜボクちゃんの言うことがわからないのか』とば
かりに手足をジタバタさせて我を通そうとする“わがままなお坊ちゃん”の姿そのもの。
わがままで冷酷だからこそ、自分に寄り添ってくる者を大切にし、その一方でお友達であ
ってもいったん都合が悪くなれば容易に切って捨てることができるのだろう。
 そんな危うい感覚で一国の政治を司り、特権意識をベースにした「都合の良い仕組み」
をつくりあげることに走られたのでは、この国が戦後70年にわたって営々と築き上げて
きた平和国家、民主国家などたまったものではないし、先人にそして私たちに続く子々孫
々に申し訳が立たないだろう。

 人々は損得に対する感性だけで生きているのでもないし、そうした感性に共感するわけ
ではない。それ以上に正邪に対する感性を大切にし、正であることを喜んで受け容れよう
とするまっとうな感覚を大切にしようと生きているのだ。
私たちが「若者たちがスポーツなどにひたむきに取り組む姿」や「ドラマや映画で前向き
に生きようとがんばる姿」に共感し、応援し、感動を覚えるのは、そうした感性を精神風
土の根っこに持っているからだ。

 だからこそ、一国主義に走ろうとする姿勢やカネをちらつかせて経済効果だけを言い募
る姿勢(アベノミクスも成果を出してはいないが)に疑いを持ち始め、支持率の低下とい
う現象につながっているのだと思われる。
 この戦前・戦中の時代をノスタルジックに希求する、特権意識を背景にした憲法違反の
政権にノーを突きつけ、後世に禍根を残さないためにも、今できることを見極め、しっか
りと「正しさ」「よさ」に向かう本来の感性を尊重して、意見を主張していかなければな
らないと痛感する次第である。

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これが答弁?

 これはいったいどうしたことなのだろう。ここまでくると政治の制度そのものを根底か
ら“軽視”どころか“無視”するような政治姿勢ではないかと、激しい憤りすら感じられ
る事態である。
 一つには、憲法改正について民進党の長妻昭議員が質問した際の答弁で『自民党総裁と
しての考えは相当詳しく読売新聞に書いてありますから、ぜひそれを熟読していただいて
もいいんだろうと』発言したことである。
 国会における責任ある答弁だとは思えないほど驚き呆れるような話である。これをまと
まな答弁であるとご自身が認識しているのだとすれば、一国の首相としても与党の総裁と
しても認識不足が甚だしいと言わざるを得ない事態だ。
 そもそも憲法改正については自身と自身を含む右傾化を強める国会議員諸氏の戦前回帰
の“こだわり(=拘泥)”が発端となっているものだろう。
その趣旨や考えについて問われているにもかかわらず、きちんと述べることを放棄して、
特定のあるメディアに書かれているから「それを読め」というのは、二重の意味で傲慢だ
と言わざるを得ない。まず、国会は国会議員のものではなく、その向こうに国民がいると
いうことを忘れてはいけない。すなわち、ある議員に対する答弁は、その議員に対する答
弁なのではなく国民全体に向けての答弁だということだ。いわば国民全体に向けて『読売
新聞を買って読め』と言っていることに他ならないのだ。
 首相であれ、与党の総理であれ、ある一つのメディアの宣伝をするかのような発言には、
これまでメディアとの関係に慎重さを保ってきた政治家には見られなかった“迂闊さ”や
“増長”さえ感じさせられる。

 さらには、自身がその場にいて答弁の機会が与えられているにもかかわらず、せっかく
の機会を自ら放棄して『読まなければわからない』『読んでいない方が悪い』とでも暗に
言うが如き答弁の仕方をするというのは、真摯に答える、あるいは説明することをせずと
も『自分の主張することを認めていればそれで良いのだ』とするかのような、驕慢な姿勢
が見えることだ。
 国会の中でそのような姿勢を国民に示していることが、立憲政治の制度や趣旨を軽視す
ることに他ならないという認識が欠けているとすれば、独裁者然とした政治姿勢を露呈し
てしまったということに他ならないことを自覚すべきなのだ。
 憲政史上、これほど国民を愚弄した答弁はないと言って良いほど最悪のそれだというこ
とを与党も自身も強く認識し直した方が良い。

 さらに噴飯物だと強く感じられるのは、『大いに(衆参)両院の憲法審査会において各
党間で議論をしていただきたい』と呼びかけたことである。
 野党各党が、そして国民の多くが、さらに憲法学者の多くが「憲法改正など必要がない」
と考えているにもかかわらず、自身のこだわりのために同じ土俵に乗れ、ということ自体
が“奇妙な”そして“まともではない”論理だと気づかないのだろうか。
 このような場合、たとえ話で考えるのは避けたいところだが、法に触れるような行いを
した人物が、『法に触れるとしても、その行いは正当だった』ということを認めることが
できるようにするための手段をみんなで考えようよ、考えないとすればそれは責任ある国
民や集団ではないということになるぞ、と提案し主張しているに等しい。
 そのような愚にもつかないような提案に乗り、話し合いの場につこうとすること自体が
間違いだということは、子どもでもわかる理屈だ。

 そもそも現憲法は、制定から70年もの間、有効に機能し、国民が大切に護ってきたこ
とにより、世界の平和と人権擁護に貢献してきた世界に誇るべき立派な憲法だ。
 現政権の都合で安易に、そして望ましくない方向に変えて良いと考えている国民は多く
はないはずだ。(もしいるとすれば、それは現政権の「危機感を煽る」煽動に乗せられて
しまった人々かも知れない)
 同じ土俵に乗るために対案を出せ、とか議論をせよ、と主張すること自体に論理のすり
替えがあるし、バカバカしさに満ちているということを自ら承知しているからこそ、一見
もっともらしい「きれいごと」を並べ立て、憲法の根幹にかかわらない枝葉を問題にし、
私たち国民の目を欺き、まやかそうとしているのだろう。
私たちはそのことに着目し、十分な注意を傾ける必要があるだろうと思われてならない。
 目を欺くということに関して言えば、(想像の域を越えないが)自身と夫人のついての
追究からも目をそらすことが可能になるとの思惑から、憲法改正を言い立てているのでは
ないか、と勘ぐりたくもなる。もしそうだとすれば、自身の政治家としてのこだわりだけ
でなく、自身の地位保全のために、憲法という国の根幹に関わる重要な装置をいたずらに
いじろうとしていることになる。

 信じがたいことに、首相は『憲法で国家権力を縛るというのは絶対王政時の旧い考え方』
だと国会で答弁するなど、現行憲法と立憲主義を全く理解していないような発言を繰り返
しているが、この憲法の趣旨が生きていればこそ、安倍政権に見るような暴走を食い止め
ることができるのだ。決して“旧い時代の話”ではないのだ。
 現にいま現在進行形で、私たちの目の前で展開されていることではないか。この憲法を
制定するにあたって尽力された先人の先見の明と慧眼に感じ入り感謝するばかりである。
 現憲法の精神が損なわれてしまえば、いまのような低次で恣意的かつ身勝手な政権運営
にいっそう弾みがつくであろうことを思うと、恐怖を禁じ得ない。
 世界各地で自国主義が横行し、多様性を否定する排他的な動きが進行しているからこそ、
なおいっそう現憲法の高々とした人類普遍の理念を大切にし、その理念を生かした国づく
りに邁進することで、日本という国が独自の働きかけで世界に貢献できるはずなのだ。
憲法の改正などまったく必要がないし、もし不都合な事態がおきても、それは下位の法律
で対処するなり、時限立法によって対応する等のことが可能なはずだ。
 我が国にとって世界に誇るべき“根幹”である憲法をゆるがせにするという愚かなことを
軽々にしてはならないし、それをうかうかと許してはならないと強く思うものである。
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遅ればせながら「憲法記念日」に際して

 今日は憲法記念日である。(と書き出したのだが、書きたいことが次から次へと生じ、
文章が長くなってしまい、つい数日経過して今日になってしまった)日本弁護士連合会の
中本和洋会長は、1947年の日本国憲法の施行から、70年目を迎えたことを受けて、「平和
と自由を守るために、たゆまぬ努力を続けることを誓う」とする憲法記念日の談話を発表
した。
 中本会長は談話で、日本国憲法の施行からこの間、「確実に国民の間に定着し、国民は
この憲法の下で不断の努力によって権利と自由を拡充させ、民主主義社会を実現・発展さ
せるとともに、平和な国家を築き上げてきた」と強調している。
 一方で、集団的自衛権の行使を可能とする「安保法制」施行に憲法違反との批判を加え
ながら、「安保法制の運用が進められ、違憲状態が既成事実にされようとしており、立憲
主義の危機ともいえる状況が生じている」と警鐘を鳴らしている。

 また、安倍総理も3日、憲法改正に向けたスケジュールについて、2020年の施行を
目指す方針を明らかにした。「憲法はたった一字も変わることなく、施行70年の節目を
迎えるに至りました」とした上で、戦争の放棄などを定めた憲法9条の改正を力説。
現在の憲法に自衛隊を位置づける条文がないことを強く問題視し、「自衛隊の存在を憲法
上にしっかり位置付けるべき」として具体的な提案をしたのだ。
 つまりは、反戦の誓いを掲げて営々と積み重ねてきた70年の努力を放棄して「軍隊を
持つ戦える国」であることを国内外に宣言しようというものだ。
 想像するに、この度の北朝鮮による相次ぐ核実験とミサイルの発射、それに対するアメ
リカ軍の出動による「力の誇示」は、絶好の追い風と感じられたことだろう。
 つまり、この事態で国民の危機感を煽り、“国民の安全を守るためにも憲法改正は是非
とも成し遂げられるべき課題だ”と強く印象づけることが期待できるからである。

 驚いたことに、4月29日朝、北朝鮮がミサイルを発射したとの報道を受け、東京メト
ロ、東武線、北陸新幹線が安全確認のため一時運転を見合わせたという。本気でミサイル
が落ちてくると思ったのか。それともミサイルが飛んできた時に運転を見合わせることで
乗客を守れるとでも真剣に考えたのだろうか。まるで、戦闘機に竹槍で応戦しようと真面
目に考えた戦中の指導者の姿とだぶって見え、なんたることかと、二重の意味でその感覚
の愚かしさに呆れてしまった。一つには、危機を煽って大騒ぎして見せる愚かしさ、また
もう一つには、そうした煽動に国民は軽々と踊らされて危機感を募らせるだろうと思って
いるらしい「国民を愚弄した姿」にである。

 北朝鮮の危機を煽っているのはアメリカのトランプ政権だが、就任100日を迎えても
大きな成果を上げられないばかりか支持率も低迷している。そこで国民の目を外にそらせ
るためにシリアを爆撃し、アフガニスタンに新型爆弾を落とし、北朝鮮危機を煽っている。
 目をそらせたいだけのパフォーマンスではあるが、大騒ぎをして力でねじ伏せることが
できれば国内の支持率を上向かせることも望めると考えてのことだろう。確固とした将来
への展望があってのあってのことでないことは、(思いつきの政策を矢継ぎ早に打ち出す)
トランプ氏のこれまでの言動を見れば容易に想像がつく。
 
 もっともトランプ政権に限らず、アメリカは先の大戦以降、朝鮮戦争、ベトナム戦争、
イラク戦争やアフガン攻撃といった一連の対外政策で、失敗を積み重ねてきているが、そ
の大きな要因は「戦わなければならない根拠の希薄さやあいまいさ」に集約される。
 かつての吉田茂は、現憲法の持つ「平和主義」を盾に、朝鮮戦争に参戦させようとした
アメリカの要求をはねのけ(再軍備の要求も)、そのかわりに武器・弾薬をつくるという
後方支援に徹することで、日本を繁栄させ、一方で日本独自の関わり方で平和の実現に貢
献することもめざすという「絶妙の外交」で日本の立つ位置を確保してきたのだ。
 それ以降、日本の自衛隊が“戦わずに”現地支援に専念してきたからこそ、現地の人々
から信頼され、受け入れられてきたことを思うと、現政権の浮き足だった浮薄な対応が悔
やまれてならない。
 
 だが、そのようなことは現政権にとってどうでもよいことのようだ。
 何よりも重要なことは、かつて衆議院議員選挙の際に発した『日本を取り戻す』ことに
あるのだ。ここで大切なことは日本を「何」から取り戻すのか、「誰の手に」取り戻すの
かということだ。
 国民の多くは、「かつての日本の繁栄を国民の手に」取り戻そうとしているのだろうと
勘違いしているかも知れない。しかし、安倍政権のこれまでの政策や立法の姿勢を見れば、
それが大きな間違いであることは容易に見通せるはずだ。
 改憲論議が出始めた時に、安倍総理が放った『国民に憲法遵守の義務を』と言った一言
でもそれは容易に想像がつく。そもそも憲法は国の基本的な理念と哲学を内外に示して謳
い、政権の恣意的な暴走に歯止めをかけ、国の行く末を誤らないようにという機能を有し
ていることは周知のことで、憲法を遵守せねばならないのは政権の側なのだ。

 現憲法の制定に奔走した幣原喜重郎内閣も、そしてそれを指導したGHQも、日本の国
民は、権力を恐れ萎縮し、権力におもねたり、権力の意向に過剰に反応したりして、付和
雷同して一方に流れやすいことや、国家がそれをよいことに暴走する怖れがあること、そ
して周辺の国々に損失と多大な被害をもたらす怖れがあることを熟知していたからこそ、
現憲法を注意深く制定したのだ。そのおかげで、日本は70年間、平和国家を築き上げる
ことに邁進できてきたのだ。それは取りも直さず、憲法がその機能を十分に果たしてきた
ことの証だと言える。
 法律にも政治にも疎いとしか思えない、あるいはそう装っているのかも知れない安倍総
理は、憲法の持つそうした機能を平然と無視し、憲法を遵守することを国民に求め、国民
を支配できる戦前の体制に戻すことを希求しているとしか思えないのだ。基本的人権の尊
重、恒久平和主義、国民主権を柱とした現憲法は、「支配層に日本を取り戻す」上でやっ
かいで邪魔な存在でしかないはずだ。
 とりわけ、個人の自由や権利を保障するなどということは、現政権やそれを取り巻く国
会議員の念頭にないということは想像に難くない。
 それは先のブログにも書いた通り、「創生『日本』」という超党派の議員団体の研修会
で自民党のある閣僚経験者が「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三原則はなくさ
ないと」と発言し、大いに賛同を受けたということからもわかる。
 それゆえの改憲志向であって、日本という国が世界に誇れるまっとうな国としていっそ
う励んでいくための改憲ではないことは言うまでもない。
いわば、過去に強いノスタルジーを抱くエスタブリッシュメントのための改憲論議であっ
て、国民や望ましい民主国家のためのそれではないのだ。

 その下地づくりのために、現政権はまず教育基本法を書き換え、学ぶ権利を有する国民
という位置づけから学ぶ義務を有する国民へと、その趣旨を180度転換させることに成
功した。さらに道徳を教科とし、「より良い生き方について葛藤を通して考え」ることを
通して道徳的実践力を培うことを目的とした活動ではなく、国にとって都合の良い価値を
押しつけ陶冶する修身さながらの教育へとその意味を変えてしまった。
 森友学園の塚本幼稚園が、幼稚園児に「教育勅語」や「五箇条の御誓文」を暗唱させる
ほか、伊勢神宮への参拝や自衛隊の記念式典で園児らが演奏したり、日の丸と旭日旗を振
らせるなど、露骨なまでの“愛国教育”を行っていたことや、安倍晋三記念小学校を創設
する際の土地取得疑惑などが問題になったこと、そしてそれが未だ解明されていない現在
進行形の問題である。
 そこで問題視された「教育勅語」について、政府の要人のみならず複数の国会議員から
『教育勅語の精神は、親孝行とか友達を大切にするといった今も大切なものを持っており、
なんら問題にはならない』といった表明がなされたばかりか、教材として使用することに
も問題はないということが“閣議決定”されたことに驚きを禁じ得ない。

 そもそも教育勅語の本質は、そのような一般的な観念にあるのではないはずだ。
 君主に従い、奉仕する人民という意味で、国民を「臣民」と記している。さらに、臣民
は戦争など国の非常時には、勇気をふるって身を捧げ、「君国」のために尽くすとも書か
れており、それが功を奏し、全体主義が浸透し、戦争中の「一億総動員」につながったと
も指摘されるものだ。
 そこで1948年、衆院は「根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている」と
指摘。基本的人権を損ない、国際的にも疑問を残すものだとして「排除」を決議し、参院
も同日、「失効確認」を決議したしろものである。
 友だちと仲良くとか親兄弟を大切に、などといったことは教育勅語を持ち出すまでもな
く、普段の学校生活の中で指導できるもののはずだが、国会を軽視し議論を尽くそうとし
ない現政権は、そのような「民主社会に反することがら」ですら閣議決定で平然と取り決
め議論に終止符を打とうとするのだ。

 時の政権にとって都合の良い国民に育てるために、学校を「教え育てる場」としてきた
のは明治の学制発布である。しかし、学校とは本来「教えられて習う場」ではない。単に
教えられて習うのであれば、それは「教習所」でしかない。これはずいぶん前に、このブ
ログで記したことであるが、学校とは文字通り「学(学んで)」「校(かむがふ=考える)」
場なのだ。そして「まなぶ」とは、自らの意思で「調べたり、探ったり」する、いわば研
究的・主体的な取り組みを指すのであって、一方的に「教えられる、教えてもらう」受動
的な取り組みの姿ではないのだ。
 また、「校(かむがふ)」は比較したり、さまざまな角度から見て「考える」という
“実践”を通して、ものの見方を自らの内に育てる姿を指す言葉だ。
 それゆえ、ある一定の知識や技術を「教えてもらい」、「覚え蓄積し」、用意された正解
を言い当て答えることができるようになるといったことだけが学習の目的ではないという
のは自明の理だ。それは学習のほんの一面だけをとらえているに過ぎないからだ。
 つまり学校で学習する本当の目的は、対象に真っ正面から対峙し、対象の本質を見極め、
とらえることのできる透徹した目と問題に対処できる解決力、さらにはそれを伝えること
のできる“理(ことわり)”を表現する力を自ら養うことにあると言って良い。
 そうした構えや態度は、世の中の動きを見据え、より良い社会をめざそうとする成熟し
た市民として自らを育てることにもつながるはずだ。新しい知見が創出されたり、これま
でになかったような難問が次々と起きる先行き不透明な社会にあっては、「覚えた知識」
では道に迷うことが多くなるであろう。そこでは、ものごとの本質を見抜く眼力と考え・
判断し、決定できる力や構えが大切になるはずだ。しかも、その判断が「独りよがり」の
ものであったり的外れなものになったりしないよう、たえず自己監視を怠らず、考えを創
出できるよう、既存の知識あるいは先人の知恵との間の往還を繰り返し、確かな判断を志
向するものでなければならないことは論を待たない。
 
 しかし、現政権は学習そのものの意味も、学校教育それ自体のねらいも、自立した市民
を育てることを目的としたそれから、従順に命令や指示に従う臣民として育てることに変
えようとしてるようである。
 そう考えれば、国民の手から「学ぶ権利」を奪って「学ぶべき存在」として位置づけた
り、人間の内面の価値観を一定の価値観や道徳律で縛ろうとしたり、本来政権の暴走を食
い止めるための機能を有する憲法を、“国民にも遵守の義務を”とお門違いなことを平然
と主張してみたり、テロを未然に防ぐためと称して「共謀罪の制定」を急いだり、「特定
秘密保護法案」を制定して国民の“知る権利”にふたをするなどといった、民主社会に逆
行するような政策を次々と打ち出してきたことも納得が行く。
 このような危うい政権が一定の支持率を得て一強のままでいるというのも不思議な話だ
が、私たち国民もよく考えて見極めた方が良い。

 安倍首相の名を借りて極めて右に偏った教育を施そうとした学園について、「教育への
熱意はすばらしい」「すばらしい教育を展開している」「自分と同じイデオロギーを共有
している」と讃えたその口で、土地の取引に関して関与が疑われ、国会での追及を受け政
権運営に都合が悪くなった途端に、「学校が行っている教育の詳細について全く承知して
いない」「しつこい人だ」などと言い訳をしたり責めたりし、挙げ句の果ては国会に呼ん
で証人喚問をして偽証罪に問おうとまでしたのだ。
 政権にとって都合の良いうちは大歓迎するが、事態が変われば一転して切り捨てられる
ということは、この一事でもよくわかるはずだ。こうした政権に日本の行く末をゆだねる
ということに不安や怖れを感じたりすることなく、支持するというのはどうした心持ちか
らなのか訝しく思う気持ちを禁じ得ない。いつ政権が、あるいは国が国民に刃を向けるよ
うになっても不思議ではないのだ。
 現政権の政策のすべてが、国民の権利を奪うことに向けられていると言っても過言では
ないが、その対象が他人ではなく自分自身である、すなわち“我がこと”として受け止め
る覚悟を各自が持った上で支持しているのであろうか。
私たちは、そのことについてよくよく考えた方が良い。

 なぜそこまで、現政権が国民支配に強い情熱を持つのかということについて、内田樹氏
がすこぶるわかりやすい説明をしている。
 内田氏は、『日本の指導層の抱え込んでいる「主権国家でないことの抑圧された屈辱感」
は日本国民に「主権者でないことの屈辱感」を与えるというかたちで病的に解消されるこ
とになった。それが特定秘密保護法、集団的自衛権行使の閣議決定、安保法制、共謀罪と
続く、一連の「人権剥奪」政策を駆動している心理である』と指摘した上で、『改憲への
熱情もそれによって理解できる。憲法に底流する国民主権のアイデアはアメリカの統治理
念そのものである。それを否定することで、対米屈辱は部分的に解消できる。そして「国
民に対してだけは主権的にふるまう」ことで国家主権を持たないストレスも部分的に解消
できる。~中略~自民党改憲草案は近代市民社会原理を全否定し、むき出しの独裁政権を
志向する病的な政治文書だが、「対米屈辱感を解消する」というねじれた政治目標に奉仕
しているのだと思えば、理解できないことはない』
 なんともストンと腑に落ちてわかりやすく納得できる絵解きである。
 
 衣の下の鎧をかくすために、現政権が腐心してきたのは「美しい言葉」で目先をそらす
ことだ。曰く『日本を取り戻す』『日本が生まれ変わる』『郷土愛』『国への誇り』等々。
テロ等準備法案にしても、「テロから国民を守る」としたり、「オリンピックを成功させ
る上で不可欠な法案」と言い募ったりしているが、オリンピックを無事に開催することを
目的とするなら時限立法で良いはずだし、もっと言えばそのような国民を萎縮させずにお
かないような法案が必要なら、オリンピックを辞退した方がよほど国民は安心なはずだ。
 そもそも安保法制を強引に策定し、外交努力を優先させることなく(イスラム憎しを根
底に持つ)西欧諸国と協働してテロと戦うと宣言したりすることがなければ、日本がテロ
の対象になどならなかったはずだ。(ここにも対米屈辱が顔を覗かせているようにも思わ
れる)
 そうした“ちぐはぐな対応”“危なげな政策”を覆い隠す上で、美しい言葉が有効だと
考えているようだが、そうしたきれいなあるいは耳に心地よい言葉が流布されるようにな
った時は危険だ、と考える人も多いし、かく言う私もその一人だ。

 それはともかく、この政権に最も危惧を感じるのは、民主主義や立憲主義といった考え
に過誤や無理解があるのではないかという点だ。
 首相自らが自分を『立法府の長だ』と言ってみたり、『自分にも表現の自由がある』と
声高に主張してみたり、多数決でなんでも押し通すことができると思っている様子が窺え
たり、子どもでもわかるような勘違いや思い過ごしをしているふしが見えるからだ。
 そればかりか、国会という討議の場であるにもかかわらず、きちんとした討議をせずに、
はぐらかしてみたり揚げ足を取るかのような発言をしてみたり、自ら大声でヤジを飛ばし
てみたりするといった、乱暴で荒っぽい姿勢も頻繁に見受けられる。
 また、『丁寧に説明する』と言いながら、その説明がなされなかったり、『大臣に任命
した責任は総理大臣である私にある』としたものの、その責任を取った形跡はどこにもな
いなど、発言それ自体に信頼が持てず、国民をして認識不足を疑わせたくなる一因となっ
ている。本当にこの人の手に政権を委任しておいて大丈夫なのだろうかと不安にかられて
しまうのは私一人ではないはずだ。
 改憲の必要など、どこにもないのにかかわらず、こうした政権下で発せられる改憲論議
だ。いみじくも中野晃-・上智大教授(政治学)が、ある講演(5月3日に行われた全国
憲法研究会の憲法記念講演会)で「『あなた手術しましょう、どこを切るかはあとで考え
ましょう』。今の改憲論は必要もないのに、とにかく手術を薦める医師のようで、信じな
いほうがいい」。と自己目的化した政界の改憲論をこう批判した、と報じられたがまさに
同感である。
 安倍首相は『オリンピックの年までに改憲を』と先日のビデオメッセージで表明してい
たが、オリンピックと憲法はなんの関わりもないはずだ。オリンピックを政治的に利用す
るということがあれば、オリンピックの精神に反する行為であることは言うまでもない。
(もっとも、商業主義に蝕まれ多大な経費を要するようになってしまった現在のオリンピ
ックが、元来の“精神”にふさわしいものと言えるかどうかは、別の問題だが・・・)

困ったことに、日本の政治指導層はオリンピックやカジノ、万博など“賑やかし”にも
似た目先の浮ついた好況に目を向けさせ、それを当てにして国民をリアリティーのない愚
かな社会に向かわせようとしているかのようである。だが、それは一時的な“まやかし”
あるいは“目眩まし”に過ぎないということを、私たちは肝に銘じておいた方が良い。
 そのような幻想につられて道を誤れば、次世代を担う子や孫に申し訳の立たない禍根を
残すことになるはずだ。
 私たちは「持てるものすべてを投げ打ってギャンブル」するかのような愚かしい期待を
この政権にかけ、元も子もなくすような危険を犯し、挙げ句の果てに前時代に逆行して臍
を噛む結果にならないようにしなければならないとつくづく思うのだ。
そうなることは目に見えているのだから。

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